「エリザベス・ムーア」の版間の差分

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エリザベス・ムーアは[[1892年]]、16歳の時に[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]の女子シングルスと混合ダブルスの2部門で初めて決勝に進出した。最初期の時代は、男子シングルス・男子ダブルス・女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの5部門がそれぞれ個別の名称を持ち、大会会場も別々のテニスクラブで開かれていた。女子シングルスは[[1887年]]に「全米女子シングルス選手権」(U.S. Women's National Singles Championship)という名前で始まり、混合ダブルスは[[1892年]]から「全米混合ダブルス選手権」(U.S. Mixed Doubles Championship)という名称で公式競技に加えられた。ムーアは女子シングルスの第6回大会と、混合ダブルスの第1回大会で決勝に進んだが、この時はどちらも準優勝に終わった。初期の全米女子シングルス選手権では、[[1891年]]から決勝戦が最大5セット・マッチで行われるようになり、ムーアは初めての決勝戦で[[マーベル・カーヒル]]([[アイルランド]])に 7-5, 3-6, 4-6, 6-4, 2-6 の5セット・マッチで敗れた。16歳6ヶ月での女子シングルス決勝進出は、[[1978年]]の[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]で[[パム・シュライバー]]が「16歳2ヶ月」で準優勝するまで、86年間全米女子の最年少決勝進出記録であった。
 
それから4年後、エリザベス・ムーアは20歳で女子シングルス・女子ダブルスの2部門に初優勝を飾った。女子シングルス決勝では[[ジュリエット・アトキンソン]]([[1873年]] - [[1944年]])を 6-4, 4-6, 6-2, 6-2 の5セット・マッチで下し、女子ダブルスではそのアトキンソンとペアを組んで優勝している。[[1897年]]の女子シングルス決勝は、2年連続でムーアとアトキンソンの対決になったが、今度はアトキンソンが 6-3, 6-3, 4-6, 3-6, 6-3 でムーアに雪辱した。[[1901年]]、ムーアは女子シングルス決勝で[[マートル・マカティアー]]を 6-4, 3-6, 7-5, 2-6, 6-2 の5セット・マッチで破り、4年ぶり2度目の女子シングルス優勝を飾った。しかし、この後[[全米テニス協会]]の運営委員たちの間で「女子選手に最大5セット・マッチはきつすぎるのではないか」という危惧の声が出るようになり、[[1901年]]を最後に女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門から「最大5セット・マッチ」が廃止された。[[1902年]]以後は最大3セット・マッチで行われるようになり、現在に至っている。ムーアがプレーした最初期の全米選手権は、このような大会運営ルールの変更も多かった。
 
女子競技がすべて最大3セット・マッチに落ち着いた後、[[1903年]]にムーアは自身2度目の女子シングルス・女子ダブルス2部門制覇を達成した。[[1904年]]、ムーアは女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに決勝進出を決めたが、3部門とも[[メイ・サットン]]([[1886年]] - [[1975年]])と決勝対決をした。ムーアが当時18歳のサットンに勝ったのは、ウィリー・グラントとペアを組んだ混合ダブルスのみで、女子シングルスと女子ダブルスではサットンに敗れてしまう。[[1905年]]は女子シングルスと混合ダブルスの2部門で決勝に進み、女子シングルス決勝では[[ヘレン・ホーマンズ]]を 6-4, 5-7, 6-1 で破り、ここで最後の全米選手権タイトルを獲得した。最後の混合ダブルス決勝では、ムーアはエドワード・デューハーストとペアを組んだが、クラレンス・ホバート&オーガスタ・シュルツ(この2人は結婚した夫婦)の組に 2-6, 4-6 で敗れた。こうしてエリザベス・ムーアは、黎明期の全米選手権に大きな足跡を残した。
 
全米選手権を退いてから半世紀後、エリザベス・ムーアは[[1959年]][[1月22日]]に[[フロリダ州]]スタークで82歳の生涯を閉じた。[[1971年]]に[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。