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[[Image:LivonianShield.svg|thumb|紋章]]
正式名称は'''リヴォニアのキリスト騎士修道会'''(羅: '''Fratres Militie Christi de Livonia''',独:
== 設立 ==
現地の異教徒との軋轢は日に日に高まり、小競り合いも頻発していた。そんな中、[[1199年]]に[[リヴォニア]]司教区の[[司教]]に任命された[[シトー会]]のアルベルトは、教皇[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]に[[東方十字軍]]の許可を願い出る。アルベルトは十字軍兵士を集め、[[1200年]][[3月]]に[[リガ]]に移動し、[[十字軍]]の力によりその周辺の異教徒[[リーヴ人]]を服属させる。さらに翌年[[1201年]]アルベルトは自分の[[リヴォニア]]司教座の位置を以前のエクスキュルから[[リガ]]に移転させる。▼
▲そんな中、[[1199年]]に[[リヴォニア]]司教区の[[司教]]に任命された[[シトー会]]のアルベルトは、教皇[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]に[[東方十字軍]]の許可を願い出る。アルベルトは十字軍兵士を集め、[[1200年]][[3月]]に[[リガ]]に移動し、[[十字軍]]の力によりその周辺の異教徒[[リーヴ人]]を服属させる。さらに翌年[[1201年]]アルベルトは自分の[[リヴォニア]]司教座の位置を以前のエクスキュルから[[リガ]]に移転させる。
▲これらを下準備としてアルベルトは[[1202年]]'''リヴォニア帯剣騎士団'''を設立する。当初のメンバーは、上の[[リガ]]まで連れてきた十字軍兵士から勧誘された。
== その特徴 ==
基本的な規則と内部構造は[[テンプル騎士団]]と同じものであったが、他の[[騎士修道会]]とは違い、騎士修道会の総長のさらに上位に[[リガ]]司教(つまり当初はアルベルト)が君臨
この騎士団の目的は、[[バルト三国]]辺りの異教徒達を討伐し服属させ[[カトリック教会|カトリック]]に改宗させることと、在留クリスチャンや宣教師(伝道者)を保護することである。これは、聖地[[イェルサレム]]の守護・奪回や巡礼者の保護を目的としている他の[[騎士修道会]]とは本質的に異なる。▼
▲この騎士団の目的は、[[バルト三国]]辺りの異教徒達を
== 業績とその終焉 ==
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が、征服した異教徒への過酷な搾取や、過度に残忍な戦いぶりや非道はローマでも問題になるほどであり、あげくそれを掣肘しようとした教皇特使にも狼藉を加える。悪評と孤立を深めるリヴォニア帯剣騎士団はやがて、1236年[[リトアニア]]のシャウリャイにてリトアニア軍に惨敗を喫し、翌年1237年には[[ドイツ騎士団]]に吸収合併される。
== 参考文献 ==
* 山内進 『北の十字軍-「ヨーロッパ」の北方拡大』 講談社<講談社選書メチエ>、1997年、第三章。
== 関連項目 ==
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