「ヴァイマル=オーラミュンデ伯」の版間の差分

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旧系統の[[ヴァイマル|ヴァイマール]]伯家の[[オットー1世 (ヴァイマール=オーラミュンデ伯)|オットー1世]]は、[[1060年]]頃オーラミュンデ伯に就くことに成功した。[[1062年]]オットーの長兄でヴァイマールを統治していた[[ヴィルヘルム4世 (ヴァイマール伯)|ヴィルヘルム4世]]が子供を遺さずに亡くなり、オットーはヴァイマール[[伯]]位にも就くこととなった。これ以後、両地域はヴァイマール=オーラミュンデ伯領として合併された。
 
[[1112年]]、ウルリヒ2世の死により旧系統のヴァイマール=オーラミュンデ伯家は断絶した。遺産相続人は、前述のオットー1世の娘アーデルハイドで、結婚相手のバレンシュテット伯[[アダルベルト2世 (バレンシュテット伯)|アダルベルト2世]]([[アルブレヒト1世 (ブランデンブルク選帝侯辺境伯)|アルベルブレヒト熊公]]の祖父)にもたらされた。皇帝[[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]をも巻き込んだ相続争いの後、ヴァイマール=オーラミュンデ伯は、アダルベルトの息子の[[ライン宮中伯]][[ジークフリート1世 (ヴァイマール=オーラミュンデ伯)|ジークフリート・フォン・バレンシュテット]]([[1113年]]没)のものとなった。その後[[アスカン家]]の近親者を経てアルベルト熊公がこれを引き継いだ。
 
アルブレヒト熊公が[[1170年]]に亡くなると、アスカン家の相続財産の分配によって、新系統のヴァイマール=オーラミュンデ伯は、熊公の若い息子[[ヘルマン1世 (ヴァイマール=オーラミュンデ伯)|ヘルマン1世]]に引き継がれた。