「舛名大周一」の版間の差分

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== 来歴 ==
岡崎市立甲山中学校、[[愛知県立豊田西高等学校]]を経て、2007年1月現在は[[名古屋大学]]工学部化学生物工学科4年卒業(1年留年している)。
 
高校時代は水泳部に所属し、[[自由形]]の選手だった。大学1年の夏に学園祭の企画で行われた相撲大会に参加して初めて相撲を取り、「相撲はシンプルだけど奥深い」と魅力を感じて相撲部に入部。2年からレギュラーとなり、[[2005年]]・[[2006年]]の[[全国国公立大学対抗相撲大会]]団体戦2連覇に貢献。相撲部を見学に来た[[千賀ノ浦]]親方から熱心に誘われ、大学院受験に失敗したこともあり、[[2006年]]9月に入門を決意。[[国立大学]]出身としては[[一ノ矢充|一ノ矢]]([[琉球大学]]理学部卒)、[[弓の里宗広|弓の里]]([[高知大学]]農学部1年中退)に次ぐ史上3人目の大相撲力士となった。
 
「舛名大」という四股名は、師匠の現役時代の四股名・[[舛田山靖仁|舛田山]]と大学名を合わせたもの。名付け親は名大相撲部の細谷辰之師範。
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2006年11月場所で初土俵を踏んだ。[[前相撲]]は3勝1敗。[[11月19日]]に[[前相撲#新序出世披露|新序出世披露]]を受け、師匠が現役最後につけた「加賀獅子」が描かれた赤色の化粧まわしで土俵に登場。工学部の学生らしく「重いなあ。単純に、物理的にですよ」と表現した。
 
初めて番付に名前を載せた[[2007年]]1月場所では、まだ卒業要件を満たしていなかったため、名古屋と東京を新幹線で往復し、大学に出席しながら相撲をとる場所となった。一番相撲に敗れたもののそこから6連勝で優勝決定戦に進んだ。惜しくも優勝はならなかったが、相撲でも話題になる活躍を見せた。2007年[[3月2日]]に卒論発表(テーマは「サケの卵細胞の構造分析」)を終え、3月場所から相撲に専念できるようになった。しかし翌5月場所は壁に当たり、1勝を挙げた後6連敗。7月場所2日目には一ノ矢と対戦し、史上初の国立大学卒業力士による取組が実現した(引き落としで敗れた)
 
== 主な成績==