「グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ」の版間の差分

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[[フランス]]王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]が南[[イタリア]]に侵攻した際、教皇軍側について戦った。のち、[[ヴェネツィア共和国]]に雇われた。1496年、教皇軍について[[ブラッチャーノ]]近郊で戦った際、グイドバルドは[[オルシーニ家]]とヴィテッリ家に捕らえられ、同じ年のうちに解放された。
 
グイドバルドは、1497年に[[チェーザレ・ボルジア]]軍に攻められてウルビーノから逃れた。6年後、チェーザレの父[[ローマ教皇]][[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]が崩御すると、ウルビーノへ舞い戻った。子供のないグイドバルドは、姉ジョヴァンナの子で教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]の甥にあたる[[デッラ・ローヴェレ家]]の[[フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ|フランチェスコ・マリーア]]を養子にした。
 
ウルビーノの宮廷は、当時イタリアで最も洗練された華やかな宮廷の一つといわれていた。宮廷の様子を記した[[バルダッサーレ・カスティリオーネ]]や、[[ポリドレ・ヴェルギル]]らがグイドバルド夫妻のもとで働いた。
 
グイドバルドは[[フォッソンブローネ]]で[[ペラグラ]]のため、36歳で若死にし、あとをフランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレが継いだ。
 
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