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'''任那'''(みまな、にんな、[[369年]] - [[562年]])は[[古代]]に存在した[[朝鮮半島]]の南部地域。[[三韓]]の中の[[弁辰]]、[[弁韓]]、および[[馬韓]]、[[慕韓]]の一部の地に相当し、新羅ではする[[伽耶|]]、中や百済、また日本で[[伽耶|加羅]]と称した地域と一部重なり合う。日本語呼称の「みまな」ではかつて、漢語表記「任那」かをこれの伽耶諸国全域とみなして出される「nim-na」という語形が、本語では伽耶諸国の中音節構造に合わせて[[開音節伽耶#駕洛国(金官伽耶)|金官伽耶国]]音節末子音に母音が付加されること。こ現在場合はm→ma)した後に、[[逆行同化慶尚南道]](後続音の影響[[金海市]])受けて前部指すも音が変化する説が有力)によて語頭子音のnがm化した結果成立したものと推定されている(「[[#任那の指す領域]]」に後述)
 
[[明治維新]]の後には古代日本の任那支配を根拠に[[征韓論]]が唱えられた。
[[明治維新]]の後には古代日本の任那支配を根拠に[[征韓論]]が唱えられ、また、日本が朝鮮半島を植民地として支配するにあたっての正当化に利用されたこともあるため、近年の概説書や教科書では任那問題を避けることが多い<ref>吉田1997 p.74 実際に、『朝鮮史』(山川出版社<新版世界各国史2>、2000年 ISBN 4-634-41320-5)においても、任那については広開土王碑文に登場する「任那加羅」や、弁韓諸国の系統の一小国としてしか扱われていない。</ref>。
 
日本による任那支配は古代以来今日まで一貫して記録され語り継がれてきた事項である。しかし、今日、韓国、北朝鮮では国家規模でこれを否定しようとしている。韓国政府は任那日本府を日韓の外交問題とし、政治的圧力による歴史の抹殺が図られている([[歴史教科書問題]]) 。
 
== 語源と読み ==
任那の語源については、『[[三国遺事]]』所収の『駕洛国記』に見える[[首露王]]の王妃がはじめて船で来着した場所である「主浦」村の朝鮮語の訓読み(nim-nae ,{{lang|ko|님내}})を転写したものとする[[鮎貝房之進]]の説が日本の学界では主流を占める<ref>該当の論考は、鮎貝房之進『日本書紀朝鮮地名攷』国書刊行会 1971年復刊(『雑攷』第7輯上下巻 1937年刊の複製再版)によるもの。(→田中1992 p.37)</ref>。また日本語呼称の「みまな」は、「nim-na」という語形が、日本語の音節構造に合わせて開音節化(音節末子音に母音が付加されること。この場合はm→ma)した後に、逆行同化(後続音の影響を受けて前部の音が変化すること)によって語頭子音のnがm化した結果成立したものと推定されている。
 
== 任那と任那日本府 ==
=== 任那の指す領域 ===
後述の諸史料のうち中国史料・朝鮮史料の解釈から、任那とは加羅(広義には伽耶諸国全域の総称、狭義には大加羅(=[[伽耶#大伽耶|大伽耶]]、現代の[[慶尚北道]][[高霊郡]]))とは別の実体を表すものであり、結論的には伽耶諸国の中の一国である[[伽耶#駕洛国(金官伽耶)|金官伽耶]]国(現代の[[慶尚南道]][[金海市]])を指すものと見られるのが一般的になっている。
 
朝鮮史学者の[[田中俊明 (朝鮮史)|田中俊明]]は、朝鮮・中国の史料では任那を伽耶諸国の汎称として用いることはなく金官伽耶を指すものと結論し、『日本書紀』においても特定国を指す用法があるとともに、総称としての用法が認められるがそれは『日本書紀』に独自の特殊な用法とする<ref>田中1992 pp.31-37.</ref>。日本史学者の[[吉田孝]]は、『日本書紀』が伽耶諸国を総称して任那と呼んだとする説が一般化していることを批判し、中国・朝鮮の史料では任那は金官伽耶単体を指すものであり、『日本書紀』の任那の用法は任那加羅(金官伽耶)を指すと同時に任那加羅を中心とする政治的領域の全体をを指す特異なものであるとしている<ref>吉田1997 pp.74-76.</ref>。
 
=== 任那日本府 ===
{{未検証}}
現在、[[記紀]]の記述や調査結果、他に傍証として、[[広開土王碑]]、『[[宋書]]』倭国伝等の記述をもとに、[[任那日本府]]は[[倭国]]の軍事を主とする外交機関であり、倭国は任那地域に権益(おそらく製鉄の重要な産地があった)を有していたと考えられている<ref>[[吉田孝]]『日本の誕生』(岩波書店、1997 ISBN 4-00-430510-1)など。吉田は、「任那」とは、[[高句麗]]・[[新羅]]に対抗するために[[百済]]・倭国([[ヤマト王権]])と結んだ任那加羅(金官加羅)を盟主とする小国連合であり、いわゆる伽耶地域とは一致しないこと、倭国が置いた軍事を主とする外交機関を後世「任那日本府」と呼んだと主張し、百済に割譲した四県は倭人が移住した地域であったとした。また、[[532年]]の任那加羅(金官加羅)滅亡後は安羅に軍事機関を移したが、[[562年]]の大加羅の滅亡で拠点を失ったと主張した(→吉田1997 pp.74-78.)。</ref>。
 
一方、[[1960年]]代頃から[[大韓民国|韓国]]や[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]では民族ナショナリズムが広がり、記紀に記されているヤマト朝廷の直截的な任那支配は誇張されたものだと主張した<ref>1963年[[金錫亨]]は「分国論」を発表した。この主張によれば、三韓の住民が日本列島に移住し、各出身地の毎に分国を建てたというもの。具体的に加耶人が広島、岡山に、新羅が東北にという主張である。 任那日本府の問題は夫々の分国がこれを争ったという解釈である。この論文によって第二次世界大戦前の朝鮮史像打破され、新しい主体的発展的な歴史像を生み出したとしている。(金錫亨著 朝鮮史研究会編『大和政権と任那 』勁草書房、1969 ISBN 4326200014)</ref>。また日本でも[[1970年]]代頃に、記紀に記されているヤマト朝廷の直截的な任那支配は誇張されたものと主張がなされた。<ref>[[井上秀雄]]『任那日本府と倭』(東出版、1973)、同『古代朝鮮』(講談社学術文庫、2004 ISBN 4-06-159678-0(原著『古代朝鮮』日本放送出版協会、1972))など。井上「任那日本府」とは『日本書紀』が引用する『百済本紀』において見られる呼称であり、6世紀末の[[百済]]が[[高句麗]]・[[新羅]]に対抗するために倭国([[ヤマト王権]])を懐柔しようとして、『魏志』(『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』)韓伝において朝鮮半島南部の諸国を表していた「倭」と、日本列島の倭人の政権とを結びつけて、ヤマト王権の勢力が早くから朝鮮半島南部に及んでいたかのような印象を与えるに過ぎず、実際の『百済本紀』の記述では、任那日本府とヤマト王権とは直接的には何の関係も持たないことが読み取れると主張した(→井上2004 pp.106-107.)。論考は井上秀雄『任那日本府と倭』(東出版、1973)に詳しい。</ref>
 
しかし、1983年に[[慶尚南道]]の松鶴洞一号墳が[[前方後円墳]]であるとして紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次いでおり(その後の調査により、松鶴洞一号墳は築成時期の異なる3基の円墳が重なり合ったものであり、前方後円墳ではないことが明らかになった<ref>[[沈奉謹]]編『固城松鶴洞古墳群 第1号墳 発掘調査報告書』(東亜大学校博物館、2005年)</ref>)、これまでのところ[[全羅南道]]に11基、[[全羅北道]]に2基の前方後円墳が確認されている<ref name=kokugakuin>[http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=44 國學院大学「韓国全羅道地方の前方後円墳調査」]</ref>。また朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、[[百済]]が南遷する前は[[伽耶]]の勢力圏の最西部であった地域のみに存在し、円筒[[埴輪]]や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている<ref name=kokugakuin/>。そのため、ヤマト王権と関連する集団(倭臣、[[倭人]]集団)が伽耶地域において一定の軍事的影響力および経済的利権を有していたことについてはほぼ確実視されるようになった<ref>[[朝鮮学会]]編『前方後円墳と古代日朝関係』(同成社(2002年)では2002 ISBN 4-88621-251-4)。この中で[[西谷正]]は倭人系百済官僚が[[栄山江]]流域に存在したと主張し、[[山尾幸久]]は、倭人の有力者が百済に移住し、百済女性との間に儲けた二世が外交の使者になっている例を挙げ、そのような倭人系百済官僚の存在を主張した。一方また同書中で[[田中俊明 (朝鮮史)|]]は、倭との関係が深く百済と一定の距離を置いていた特定の首長層の墓と主張している。</ref>。またヤマト王権による伽耶地域の直截的な支配があったという説も依然として存在する{{要出典}}。
 
== 各種史料 ==
=== 中国史料における任那 ===
『[[日本書紀]]』([[720年]]成立)よりも古い記述を含み、信頼性が高いとされる
 
* 『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書東夷伝・弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説がある。
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* 『[[翰苑]]』([[660年]]成立)新羅条に「任那」が見え、その註([[649年]] - [[683年]]成立)に「[[新羅]]の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700~800里の地点に並在している。」と記されている。類書の『[[通典]]』([[801年]]成立)、『[[太平御覧]]』([[983年]]成立)、『[[冊府元亀]]』([[1013年]]成立)もほぼ同様に記述している。
 
<!--以下の記述も特定の解釈であり、出典明記を求めます。-->
<u>これらから、中国史料における「任那」は、
* [[三国時代 (中国)|三国時代]]([[220年]] - [[280年]])の「[[弁辰]]」に替わって、
* [[宋 (南朝)|宋]]代([[420年]] - [[479年]])にはすでに成立しており、
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* 任那は、[[梁 (南朝)|梁]]代([[502年]] - [[557年]])に、特に[[525年]]以前に新羅に滅ばされた。
* 任那の故地に関する記憶は[[唐]]の[[高宗 (唐)|高宗]]([[649年]] - [[683年]])の時代まで残っていた。
と総括できる{{要出典}}</u>
 
=== 朝鮮半島史料における任那 ===
朝鮮半島史料では任那は百済と新羅によって滅ぼされた[[伽耶]]諸国とされている。
* [[広開土王碑]]』400文([[414年]]建立) : [[永楽 (高句麗)|永楽]]10年(400条の「任那加羅」が史料初見とされている。
* 『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』([[924年]]成立) : 大師の俗姓ついて「任那」が見えの王族に連な新金氏」としており任那は[[伽耶#駕洛国(金官伽耶)|金官伽耶]]を指している。
* 『[[三国史記]]』([[1145年]]成立) : 本紀にはなく、現われず列伝に1例が認められる(巻46・強首伝:「臣本任那加良人」)。
 
=== 日本史料における任那 ===
* 『肥前風土記』([[713年]]成立)松浦郡条に「任那」が見え、
* 『日本書紀』([[720年]]成立)[[崇神天皇]]条から[[天武天皇]]条にかけて「任那」が多く登場し、
* 『新撰姓氏録』([[815年]]成立)に「任那」、「弥麻那」、「三間名」と見えている。
 
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== 東アジア情勢から見た任那の興起 ==
{{出典の明記}}
 
<!--任那を加耶全体とする見解からの記述であり、出典ナシの状態は適切ではないと思います。-->
[[魏 (三国)|魏]]に続く[[西晋|晋]]代になり、290年頃に[[八王の乱]]が起きて中原が乱れると、[[鮮卑]]の慕容氏が強勢になって遼東と遼西に進出し、[[楽浪郡|楽浪]]・[[帯方群|帯方]]両郡は中原との陸路の連絡を絶たれ弱体化した。そして[[高句麗]]の攻撃を受けて、[[313年]]には楽浪郡が、翌[[314年]]には帯方郡が滅亡した。[[346年]]には[[前燕]](慕容氏)による高句麗の一時的壊滅と、さらに[[357年]]の前燕の中原進出に伴う高句麗の再起と、朝鮮半島南部への政治的圧力関係は、めまぐるしく情勢が変化した。この間に朝鮮半島南部の政治状況は一気に流動化したと考えられ、魏代の[[弁辰]]([[弁韓]])諸国は任那に再編成されたと推測される。一つの仮説ではあるが、その時期は320年から350年、しぼってみると345年から355年頃ではないかと考えられる。
 
== 中国史料と日本史料の統合による任那の滅亡 ==
{{未検証}}
<!--この節全体が、特定の解釈からなる推論含みの記述となっています。出典を追記するとともに、別の解釈からの記述を出典付きで追記したいと考えます。-->
* 『日本書紀』512年条に「任那四県」の百済への割譲が記載され、
* 『[[梁職貢図]]』([[525年]]頃成立)にはすでに「任那」の記載はない。
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また、任那四県割譲(任那滅亡)後に残った加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国を総称して任那と呼んだという記述もあるが、これは滅亡した任那の貢を代行して納める国々として解される。
 
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 関連項目 ==
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* [[任那日本府]]
 
== 参考文献・脚注 ==
*[[井上秀雄]]『古代朝鮮』講談社学術文庫、2004年 ISBN 4-06-159678-0(原著『古代朝鮮』日本放送出版協会、1972)
<references />
*[[田中俊明 (朝鮮史)|田中俊明]]『大加耶連盟の興亡と「任那」』吉川弘文館、1992年 ISBN 4-642-08136-4
*[[吉田孝]]『日本の誕生』岩波書店、1997年 ISBN 4-00-430510-1
*朝鮮学会編『前方後円墳と古代日朝関係』同成社、2002年 ISBN 4-88621-251-4
 
[[Category:朝鮮の歴史|みまな]]