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'''センゲリンチン'''('''僧格林沁'''、''Sengge Rinchen''、[[1811年]] - [[1865年]])は、[[清]]の将軍。[[モンゴル族]]。
 
センゲとは[[チベット語]]で「獅子」、リンチンとはチベット語で「宝」を意味する。[[内モンゴル自治区|内モンゴル]]の[[ホルチン左翼後旗]]の人。[[ボルジギン氏]]で、『蒙古世系』によると[[チンギス・ハーン]]の次弟[[ジョチ・カサル]]の26代の子孫に当たるという。[[1825年]]、ルチン郡王を継ぐ。[[1853年]]、[[天津]]南郊で[[太平天国]]の北伐軍を撃破し、[[1855年]]には太平天国の[[李開芳]]軍を全滅させ、李開芳を捕えた。[[1857年]]、[[アロー戦争]]で天津防衛の[[欽差大臣]]に任命された。[[1859年]]、大沽の戦いで[[イギリス]]・[[フランス]]連合軍を破った。しかし翌年、天津が陥落し、彼が率いるモンゴル騎兵軍は[[通州]]に撤退した。通州の八里橋で英仏連合軍に惨敗し、モンゴル軍を尽く失った。これにより英仏連合軍は[[北京]]に侵攻し、[[円明園]]が破壊された。センゲリンチンは爵位を失ったが、欽差大臣の職には留まった。同年9月[[直隷省]]・[[山東省]]一帯で[[捻軍]]が蜂起すると掃討に当たり、山東省・[[河南省]]・[[安徽省]]を転戦した。[[1865年]]、山東省曹州荷沢県の高楼寨で[[頼文光]]率いる捻軍に包囲され、全軍が壊滅し、センゲリンチンは戦死した。
 
[[Category:清朝の人物|せんけりんちん]]