「アーサー・コーンバーグ」の版間の差分

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彼はジョセフ・コーンバーグとレナ・コーンバーグの息子として[[ニューヨーク]]で生まれた。両親は、現在は[[ポーランド]]領となっている[[ガリツィア]]から結婚前の1900年に移ってきた移民である。彼の父方の祖父は、他人の名義を使って徴兵を逃れるために、姓をクウェラー(Queller)からコーンバーグへ変更した。ジョセフは1904年にレナ・カッツと結婚した。彼は30年近くニューヨーク西岸のミシン屋で働いていたが、健康を崩してからは[[ブルックリン]]で工具店を開いた。アーサーは9歳の時からこの店で店番をするようになった。ジョセフは公的な教育は全く受けていなかったにも関わらず、少なくとも6ヶ国語を話した。
 
アーサー・コーンバーグは、エイブラハム・リンカーン高校を卒業した後、ニューヨークの[[ニューヨーク市立大学シティカレッジ]]に入学した。ここで1937年に学士を取得し、1941年に[[ロチェスター大学]]医学部(米国医学博士号部は[[専門職大学院]])を卒業し、[[医師]]免許(M.D.)を取得した。コーンバーグは、血中の[[ビリルビン]]濃度が上昇する、[[ジルベール症候群]]([[ギルバート症候群]])として知られる軽い[[黄疸]]に罹った。彼はフェロー医学部生徒学友とこの病気の発症率を調査し、1942年に初めての論文としてまとめた。
 
彼は1941年から42年の間に[[ニューヨーク州]][[ロチェスター]]のストロングメモリアル病院で臨床研修を行った。研修が終わ修了すると彼は1942年に大尉として[[アメリカ沿岸警備隊]]に入隊し、船医として働いた。[[アメリカ国立衛生研究所]](NIH)のローラ・ダイアーが彼の論文を読み、彼を研究所に招いた。1942年から45年にかけて、コーンバーグは[[ラット]]に特定の物質を与え、新しい[[ビタミン]]を探す研究を行った。
 
==研究==
彼にとってラットに餌を与えるのは退屈な仕事であり、彼は次第に酵素に魅力を感じていった。彼は1946年にニューヨーク大学のセベロ・オチョアの研究室に移り、酵素の精製に必要な[[有機化学]]、[[物理化学]]の知識を補うために[[コロンビア大学]]のサマーコースに通った。彼は1947年から53年までNIHの酵素・代謝部門の長を務め、[[NAD]]や[[NADP]]からの[[ATP]]の生合成の研究を行った。この研究が、さらに単純な分子であるDNAの生合成の研究につながった。
 
1953年、彼は[[ミズーリ州]][[セントルイス]]にある[[ワシントン大学]]の教授となり、1959年まで勤めた。ここでも彼はDNAの合成に関わる酵素の研究を行った。1956年、彼は[[DNAポリメラーゼ]]Ⅰとして知られる初めての[[DNA合成酵素]]を単離し、この業績で1959年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。彼は1960年にニューヨーク市立大学シティカレッジで法学博士を取得し、1962年にロチェスター大学で博士を取得した。1959年からは[[スタンフォード大学]]の生化学の教授を務めた。
 
コーンバーグの母親は、1939年に[[胆嚢]]の手術を受けた後、[[クロストリジウム属]][[真正細菌|細菌]]の[[芽胞]](内生胞子)に感染して[[ガス壊疽]]のために亡くなった。これがきっかけで、彼はその後、芽胞の研究に一生を捧げた。1962年から70年にかけて、コーンバーグはDNA生合成の研究を行う傍らで、DNAが複製し芽胞に入る機構や芽胞から新しく増殖型の細胞ができる(発芽)機構の研究も行った。これは流行の研究ではなかったが難しい問題で、いくつかの進歩が見られたものの、コーンバーグは後に諦めてしまった。