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'''石上 麻呂'''(いそのかみ の まろ、[[舒明天皇]]12年([[640年]]) - [[霊亀]]3年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]([[717年]][[4月22日]]))は、日本の[[飛鳥時代]]と[[奈良時代]]の人物である。麻呂は'''麿'''とも書く。旧仮名遣いでの読みは同じ。氏ははじめ'''物部'''(もののべ)で、後に石上に変えた。姓([[カバネ]])ははじめ[[連]]で、後に[[朝臣]]となった。
 
[[物部氏]]は[[飛鳥時代]]の有力氏族である。麻呂の父は[[物部宇麻呂]]。子に[[石上乙麻呂]]と[[藤原宇合]]正室となった娘がおり、孫に[[石上宅嗣]]がいる。[[672年]]の[[壬申の乱]]で物部麻呂は大友皇子([[弘文天皇]])の側につき、皇子の自殺まで従った。赦されて[[676年]]に[[遣新羅使|遣新羅]]大使]]なりして[[新羅]]に行き、以後、法官の仕事につき、[[700年]]筑紫総領になった。[[701年]]に大納言となって以後、政治の中枢に携わり、[[704年]]に[[右大臣]]、[[708年]]に[[左大臣]]に任じられた。[[715年]]から[[717年]]の死までは[[太政官]]の最高位者であった。
 
なお、[[竹取物語]]において[[かぐや姫]]に求婚する五人の[[貴族]]のうちの一人である「'''石上まろたり'''」のモデルであると考えられている。