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[[1945年]]、[[日本文芸家協会]]を再建し、理事に就任(~[[1974年]])。
[[1946年]]、日本著作家組合創設。書記長となる。同年、[[野上彰 (文学者)|野上彰]]の「火の会」に参加。[[第二次世界大戦]]に協力した文化人を指弾。1948年、[[福田陸太郎]]、[[太田三郎]]とともに[[日本比較文学会]]を結成、初代会長となる。
[[1951年]]から[[1952年]]にかけて、[[伊藤整]]の[[チャタレー事件|チャタレー裁判]]で特別弁護人として出廷し、[[言論の自由]]を擁護。
[[1954年]]、[[著作権]]保護への貢献によって[[菊池寛賞]]受賞
[[1960年]]、東大仏文大学院講師となる。[[1962年]]、東大を辞職。
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[[1979年]][[6月11日]]、[[肺癌]]で死去。
クラシック音楽にも造詣が深く、[[1982年]]、京子未亡人が私財を提供して[[中島健蔵音楽賞]]を創設。
== 切手コレクターとして ==
切手コレクターとしては、[[清朝]]国家郵政初期から[[中華人民共和国]]建国まで幅広く中国切手全般を収集し、日本関連においても明治中期の[[消印]]である「丸一型印」の研究の先駆けを努める。1966年からは[[日本郵趣協会]]の会長を歴任し、[[郵趣]]の普及と発展に大きく貢献した。その功績をたたえ、中島健蔵賞(現・[[中島健蔵・水原明窗賞]])が創設された。
== 中河与一ブラックリスト事件 ==
戦時中、作家[[中河与一]]が、左翼的な文学者の「ブラックリスト」を警察に提出したという噂が戦後流れた。これも一因となって中河は文壇からパージされたと言われる。しかしこれは[[平野謙]]によるデマで、自身の戦争協力を隠蔽するための工作だったと言われ、中島健蔵もこれに加担していた疑いが濃い。戦後の、戦争責任追及行為は、中島自身の戦争協力を隠すためだったとする見方が今では有力である(森下節『ひとりぽっちの闘い-中河与一の光と影』)
== 主な著作 ==
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