「アンドリュー・メロン」の版間の差分

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しかしながらメロンは保守的な共和党員として、また資本家として、現状の政府の予算管理の手法に満足していなかった。当時の政府の財政は、歳出の増加に対して歳入が追いついておらず、貯蓄が減少している状況であった。
 
メロンは危機的状況に向かいつつある合衆国の財政を立て直すため、税制改革を推進した。まずメロンは物価の高騰の原因が高い税金にあると判断し、物価の上昇を抑えるために減税措置を執った。続いてメロンは政府の[[固定費用]]を削減するよう[[連邦議会]]に繰り返し働きかけ、その剰余金を[[国庫]]借入金の返済に充当した。そして政府の出費が節減されたことにより、さらに税金を下げることができるようになった。
 
メロンは大企業が多くの仕事を確保できれば、一般大衆にもお金が回るようになるという[[トリクルダウン理論]]を支持し、大企業に対して税制優遇措置を執った。この政策は後の政権にも継承され、[[ハーバート・フーヴァー]]大統領は[[世界恐慌]]の際に大企業に対して大規模な減税を行った。
 
メロンが財務長官に就任した当時、政府の歳出は65億ドルであった(1920年度予算)。さらにその後2年半の固定費用として75億ドルが計上されていた。メロンは就任からわずか3年で固定費用を35億ドルにまで減少させ、[[国庫]]借入金を28億ドル削減した。短期固定費用は完全に清算され、政府の財政は黒字に転換した。
 
[[1923年]][[8月]]、ハーディングの死去により副大統領の[[カルビン・クーリッジ]]が大統領に昇任した。ハーディング内閣の閣僚はそのままクーリッジ政権に継承され、メロンもまた留任した。同年[[11月]]、メロンは「[[メロン計画]]」と呼ばれる文書を下院歳入委員会に提出した。この文書は剰余収益を基盤に減税を行うことを主張したものであり、翌[[1924年]]にはこの提言の大部分が[[歳入法 (1924年)|歳入法]]として成立した。[[1921年]]の税率はそのまま維持されたが、結果として毎年の税負担が4億ドル軽減された。この改革により[[1921年]]には260億ドルあった[[国庫]]借入金が、[[1930年]]には160億ドルにまで減少した。
 
[[1929年]][[3月]]、政権が[[ハーバート・フーヴァー]]大統領に交代したが、メロン計画の成功を買われたメロンは引き続き財務長官を務めることになった。しかしながら同年[[11月]]、[[世界恐慌]]が発生すると、メロンは世論の猛烈な批判を浴びることになった。フーヴァー政権は[[スムート・ホーレー法]]などの税制政策により国内経済の安定を図ったが高い関税率により輸出は停滞。[[1932年]][[2月]]、メロンは財務長官を辞任した。
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