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[[党錮の禁]]の際には海上へ逃れ、更に南へと逃れた。この間、十数年。この間に著述を行い、碩儒と呼ばれるようになった。
 
党錮が解かれると高官たちは荀爽を争って辟召しようとした。[[司空]]の[[袁逢]]が推により有道にげられたが、荀爽は応じなかった。しかし後に袁逢が死去すると荀爽は3年の服喪に入った。このことで更に名声が高まり、[[大将軍]][[何進]]の従事中郎となり、更に[[侍中]]とされた。
 
何進が殺され、[[董卓]]により[[献帝 (漢)|献帝]]が擁立されると荀爽は董卓から離れたいと思ったが叶わず、平原郡の[[相]](次官)とされた。荀爽が任地へと向かう途中、[[光録勲]]とされ、更に[[司空]]とされた。95日の間の出来事である。