「ゲオルク (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
2行目:
 
== 生涯 ==
ゲオルクは、[[フリードリヒ5世 (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|フリードリヒ5世]]の息子。[[1506年]]に[[ボヘミア王]]・[[ハンガリー王]][[ウラースロー2世]]の宮廷に仕え、その王子である[[ラヨシュ2世]]の後見人兼家庭教師となった。[[1515年]]から、[[1527年]]までは兄の[[カジミール (ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯)|カジミール]]と共同で、それ以後は単独で、アンスバッハを統治した。
 
[[1524年]]には[[宗教改革]]の受け容れを明確に公言した。彼はすでに自分の領土におけるプロテスタントの布教と強化を認めており、[[1523年]]に獲得した[[シュレージエン]]地方のイェーゲルンドルフ公領を寄付したりしていた。彼は、弟で[[ドイツ騎士団]]総長であった[[アルブレヒト (プロイセン公)|アルブレヒト]]と謀って騎士国家であった[[プロイセン]]を世俗の公領とし、[[1525年]]に[[クラクフ]]条約を結んでこれを調停した。[[1529年]]の[[シュパイアー]]または[[1530年]]の[[アウクスブルク]]での帝国会議でプロテスタント特権を決議し、[[ブランデンブルク選帝侯]][[ヨアヒム2世 (ブランデンブルク選帝侯)|ヨアヒム2世]]を宗教改革派に鞍替えさせた。