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'''ラーオ族'''はラーオ語(ラオス語)を母語とする者。とは講義には[[ラオス]]および[[タイ王国|タイ]]東北部([[イーサーン]])に住むタイ族の一派である。ラオスにおいては約240万人すむ多数派であり、タイにおいてはそれを大きく上回る人口のラーオ族が住んでいる。なお、ラオスの国名(サーターラナラット・パサーティパタイ・パサーソン・ラーオ)に反映されている「ラーオ」の語は他の民族を含む「ラオス国籍保有者」という意味でのラーオであり、ここでは説明を省く。また、タイ側に捕虜として連れてこられたのち、タイに居住する様になったラーオ族に関してもこちらでは軽く触れることとし、詳細な説明は[[イーサーン人]]に譲るとする。なお、ラーオとされる民族には他[[北タイ]]に進出したグループもいるが、こちらも[[ユワン族]]に譲るとする。
==歴史==
タイ族の一派であるラーオ族は一説では[[6世紀]]頃[[チエンセーン郡|チエンセーン]](タイ北部、[[チエンラーイ県]])に到達し、[[11世紀]]に[[パヤオ]](タイ北部、[[パヤオ県]])に到達したとされる。この中からパヤオを後にし、[[メコン川]]東岸(ラオス)に移住したグループがあった。これが現在のラーオ族と呼ばれるものである。[[ナーン王統史]]にも[[プーカー王国]]初期に、二人の王子の一方が[[ナーン (タイ)|ナーン]]メコン東岸に移住する話があり、これがラオスの最初の王朝、[[ラーンサーン王朝]]になったとしている(ただし、真偽のほどは不明である)。その後、ラーオ族はクメール王朝の退け王国を成立させた。これが前述のラーンサーン王朝である。このラーンサーン王朝は後に内部争いによって分裂し、周辺諸国の軍事的を受けて衰退した。このような状況下ラーオ族の国際地位は低くなった。長く現在のラオス地域に影響力を持ち続け、同じタイ族である[[小タイ族]](シャム人)の治めた[[アユタヤ王朝]]、[[チャクリー王朝]]の君主はラーオ族を同系民族と見なしていたが、一方でラーオ族を「田舎者」と見なしており、一種の蔑視が生じていた。これはラーオ族に小タイ族と別民族であるという意識、つまり一種のナショナリズムを生じさせた。時代は下り、[[仏領インドシナ]]時代には、官僚にベトナム人が採用され、ラーオ語による教育および出版なども許可されず、ラーオ族の文化は衰退する一方であった。これらの文化的な抑圧もラーオ族のナショナリズムの高揚を促進した。
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ラオス政府による[[ラオス人]]の定義は以下の通りである。
*[[低地ラーオ族]]
*[[丘陵地ラーオ族]]
*[[高地ラーオ族]]
ただし、これは言語などによる分類ではなく極端な言い方をすれば、居住地が低いか高いかの問題であり、少数民族とよばれる民族などの存在が無視されている分類法である。これはラオス政府が全国民の48%を占める少数民族をラオス人として定義することで、同化を促進し少数民族が内乱の原因にならないようにしようとしているからであると言われる。
ラオス国内には240万人([[1995年]]センサス)のラーオ族が居住しており(なお、ラーオ族を含めた[[タイ・カダイ語族]]全体では300万人である)、これは国民の52%を占める。一方でタイ国内のラーオ族(イーサーン人)はタイ国民の約3分の1を占めると言われる。なおこれらのイーサーン人と呼ばれる人々はタイ東北部の多数派であるが、[[バンコク]]等へ出稼ぎに出ることが多いため、国内に点在している。これらイーサーン人は小タイ族への同一化傾向にある。ラーオ族はカンボジアにも一部が居住しているほか、[[第二次インドシナ戦争]]や[[パテート・ラーオ]](ラオス愛国戦線)による内乱でベトナムへ逃れたグループが約50万人いる。
==言語==
ラーオ族は[[ラーオ語]](ラオス語)を母語とする。使用文字は[[ラーオ文字]]である。
==文化==
[[コーラート台地]]のはずれにあり、北及び東が山に囲まれているため雨が少なく、土壌の水はけが悪く雨が降ればすぐに氾濫するという地理的状況から食文化は非常に質素であり、餅米に魚や[[ソムタム]]というのが伝統的なスタイルである。ラオス国内のラーオ族の料理はフランス料理の影響もあり、[[フランス・パン]]なども
宗教的には[[上座部仏教]](小乗仏教)であるが、小タイ族と比べ精霊信仰([[ピー信仰]])の影響が強い。
音楽には独特の[[モーラム]]と呼ばれる音楽がある。しかし現在ではバンコクでイーサーン人によって生産された物の方が主流である。
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*[[イーサーン]]
[[he:לאו (עם)]]
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