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*[[1916年]](大正5年)、[[明治大学]]講師。
*[[1918年]](大正7年)、東京帝国大学大学院修了。
*[[1919年]](大正8年)、[[日本女子大学]][[教授]]([[1947年]]まで)。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]講師([[1926年]]まで)。
*[[1924年]](大正13年)、[[東京大学史料編纂所|東京帝国大学史料編纂掛]]業務嘱託。
*[[1925年]](大正14年)、東京帝国大学史料編纂掛史料編纂官。
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1910年(明治43年)、東京帝国大学文科大学国史学科に入学。勉学に励み、特待生に選ばれる一方、明治中学校の講師や家庭教師などで忙しい毎日を過ごした。1913年(大正2年)に東京帝国大学文科大学国史学科を卒業。卒業式の際、恩賜の銀時計を受ける。大学卒業後、直ちに大学院に進学。大学院では指導教官[[三上参次]]のもとで、江戸時代の文化史を専攻した。大学院在学中に文科大学卒業論文をまとめた『江戸幕府鎖国史論』や、一般向けに著した『源九郎義経』を出版。また、指導教官の三上参次からも数多くの仕事が与えられ、[[静岡県]]教育会から委嘱された徳川家康の伝記編纂や、徳川三百年祭記念事業の研究者を委嘱された。これが後年発表する『徳川家康文書の研究』の基礎となった。
 
1918年(大正7年)に東京帝国大学大学院を修了したのち、第一高等学校や日本女子大学などで教鞭をふるう一方、東京帝国大学経済学部に入学し経済学を学んだ。そして、1924年(大正13年)に文学博士学位請求論文である「元禄及び享保時代における経済思想の研究」を東京帝国大学に提出。美濃紙原稿2500枚の大著であった。その後、1926年(大正15年)に文学博士の学位を取得。中村は学位論文合格の知らせを、当時史料編纂掛事務主任で東京帝大教授であった[[辻善之助]]から聞いた。その一方で、1924年には、月刊誌『歴史と趣味』の刊行をはじめ、その主幹となって全冊の執筆を担当。[[太平洋戦争]]が激化して紙の配給が停止される[[1944年]](昭和19年)まで続けた。
 
1925年(大正14年)に史料編纂官となり、1926年には東京帝国大学助教授を兼任。本官が史料編纂官であったため、講座の担当はなかった。1935年(昭和10年)に東大の組織の改変により東京帝国大学助教授兼史料編纂官となり、文学部の勤務が主となった。そして、1938年(昭和13年)に東京帝国大学教授に就任。国史学第二講座を担当し、江戸時代史と近世社会史を講じた。