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[[Image画像:Johann Hermann Schein.png|thumb|right|180px|ヨハン・ヘルマン・シャイン]]
{{クラシック音楽}}
'''ヨハン・ヘルマン・シャイン'''('''Johann Hermann Schein''', [[1586年]][[1月20日]] - [[1630年]][[11月19日]])は、[[17世紀]][[ドイツ]]の[[作曲家]]。同時代に音楽を築いた[[ハインリヒ・シュッツ]]と[[ザムエル・シャイト]]と合わせて、ドイツ・[[バロック音楽|バロック]]の3Sと呼ばれる。
 
== 生涯 ==
グリュンハイン([[:de:Grünhain|Grünhain]])に生まれたシャインは父の死をきっかけに[[ドレスデン]]へ移り、その地で[[ザクセン]][[選帝侯]]の聖歌隊にボーイソプラノとして参加した。シャインは聖歌隊員として歌うのと同時に、その並外れた才能を見抜いた[[カペルマイスター]]のRogier Michaelに音楽教育を受けた。彼は[[1603年]]から[[1607年]]にかけて[[プフォルタ校]]([[:en:Pforta|Pforta]])で勉強し、その後[[1608年]]から[[1612年]]まで[[ライプツィヒ大学]]に通い、ここでは一般教養に加えて法学も勉強した。卒業後、シャインはすぐにゴットフリート・フォン・ヴォルファースドルフ(Gottfried von Wolffersdorff)の邸宅に[[音楽監督]]兼[[家庭教師]]として雇われた。その後彼は[[ヴァイマル]]のカペルマイスターとなり、それから間もなく[[ライプツィヒ]]で[[トーマスカントル]]の地位につく。シャインは残りの生涯にわたってこの地位にあった(およそ1世紀後に[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]がこの地位に就任している)。
[[1616年]]から[[ライプツィヒ]]の[[聖トーマス教会]]の[[トーマスカントル|カントル]]を務めた([[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]はそのポストに1世紀後に就任した)。
 
友人であった[[ハインリヒ・シュッツ]]と異なり、シャインは生涯にわたり病気に苦しめられ、幸福で長い生涯をおくることが出来なかった。彼の妻は子供の出産時に亡くなり、5人いた彼の子供のうち4人が幼少期に亡くなっている。シャイン自身もまた、[[結核]]・[[痛風]]・[[壊血病]]および[[腎臓]]の病気を患った末、44歳で死去している。
==特徴==
 
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== 特徴 ==
シャインは、[[イタリア]]・バロックの新機軸—[[モノディ]]、[[コンチェルタート]]様式、[[通奏低音]]—を理解し、それらをドイツの[[ルーテル教会|ルター派]]の文脈に効果的に用いた最初の人物のひとりである。シュッツが少なくとも一度はイタリアに旅行したことがあるのに対し、シャインは生涯をドイツで過ごしており、それでいて驚くべきことにイタリアの形式を理解しているのである。彼の作曲した初期のコンチェルタート様式の音楽は、当時ドイツで書物として用意することが可能であった[[ロドヴィコ・ヴィアダーナ|ヴィアダーナ]]の「''Cento concerti ecclesiastici''」をモデルとしている様子が見受けられる。
 
ほとんど宗教音楽しか作らなかったシュッツとは異なり、シャインは宗教音楽と世俗音楽をほぼ同じくらい作曲し、ほぼ全てが歌曲である。シャインの世俗歌曲は、その歌詞全てを自らが執筆している。生涯を通じて、シャインは宗教音楽と世俗音楽の曲集を交互に出版していた。これは、彼が早期に、礼拝のための音楽と社交的な集まりのための音楽を交互に出そうと決心していたためである。この二種類の音楽の違いは極めて顕著である。彼の宗教音楽の一部がイタリアの[[祈祷]]用[[マドリガーレ]]にみられる洗練された技術を用いているのに対して、世俗音楽では[[酒宴]]歌にみられる驚くべき単純さとユーモアが用いられている。シャインの作品のいくつかは強烈な表現力をもっており、当時のドイツではそれに匹敵するものはシュッツの作品のみであった。例えば、壮観な「イスラエルの泉」([[1623年]])に関して、シャインはドイツの[[ワード・ペインティング]]の可能性を「イタリアのマドリガーレの形式を用いて」使い切ろうとする意志を言明している。
 
おそらくシャインの最も有名な音楽集は、唯一の器楽集である「音楽の饗宴」(''Banchetto musicale'', [[1617年]])であろう。この曲集には20の独立した変奏[[組曲]]が含まれており、それらはこの形式としては最初期にして最も完璧な代表作とされる。おそらくこれらの曲は[[ヴァイセンフェルス]]やヴァイマルの宮廷における晩餐のための音楽として作曲され、[[ヴィオール]]によって演奏されることを意図していたと思われる。この曲集にはダンス音楽も含まれている:[[パヴァーヌ|パヴァン]] - [[ガイヤルド]](バロック音楽初期によく見られた組み合わせ)、[[クーラント]]、[[アルマンド]] - トリプラといった構成である。「音楽の饗宴」に収録された組曲は、様式および主題によって統一されている。
 
== 主作品 ==
*Banchetto musicale音楽の饗宴 (1617)
*オペラ・ノヴァ(1618)
*イスラエルの泉(1623)
 
== 出典 ==
* [[マンフレッド・ブコフツァー|Manfred Bukofzer]], ''Music in the Baroque Era''. New York, W.W. Norton & Co., 1947. ISBN 0-393-09745-5
* Article "Johann Hermann Schein," in ''The New Grove Dictionary of Music and Musicians'', ed. Stanley Sadie. 20 vol. London, Macmillan Publishers Ltd., 1980. ISBN 1-56159-174-2
 
{{先代次代|[[トーマスカントル]]|1615年 - 1630年|[[ゼトゥス・カルヴィジウス]]|[[トビアス・ミカエル]]}}
 
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