メインメニューを開く

差分

en:Petrus Damiani17:49, 2 August 2007版より。執筆者en:user:SDCen:user:User:JASpenceren:user:User:Wetmanen:user:User:Panairjddeen:user:User:Everykingほか 翻訳中。今日はここまで
その後改革派はフィレンツェの司教ゲルハルドゥスを[[ニコラウス2世 (ローマ教皇)|ニコラウス2世]]として擁立した。[[1059年]]の終わりごろ、ペトルスはニコラウス2世によって[[ミラノ]]への使節として派遣された。そのころのミラノは、聖職禄が公然と売買され、聖職者は公的に妻を娶り、一緒に住んでいるというような堕落した状況にあった。アリアルドやルッカのアンセルムス<ref>のちに[[アレクサンデル2世 (ローマ教皇)|アレクサンデル2世]]となるルッカの大アンセルムス。彼のあとに[[1071年]]にルッカの小アンセルムスがミラノ大司教となっている。</ref>はこれを改革しようとしたが、激しい抵抗にあっていた。そこでニコラウス2世はペトルスを教皇特使とし、アンセルムスを補佐に就けた。このときミラノの聖職者たちは不安を感じ、ローマにはミラノに対する何の権限もないと抗議した。ペトルスは大聖堂にこの群衆を集めて敢然と向き合い、彼の決定をすべての人々に了承させることで、教皇庁の権威を示した。
 
ペトルスはまず大司教と大司教に属するすべての聖職者に、将来にわたって昇進に際して代償を払うことがないよう、厳粛な誓いを要求した。そののち、罪を犯した全員に償いをさせ、独身を守って生きることを選択した者にはふさわしい聖職禄で復帰させた。この穏健的な決定はローマで若干の急進主義者によって批判されたが、結局翻ることはなかった。だがニコラウス2世の死後に論争は再燃し、[[1066年]]のアリアルドの殉教の後もずっと、決着しなかった。ペトルスは批判から逃れようと、泥沼の議論に弁論していたが、ニコラウス2世もヒルデブラントも、彼には同意していなかった<ref>とくにヒルデブラントは聖職売買について、フンベルトゥスに近い立場であった。一方でルッカの大アンセルムス、すなわちアレクサンデル2世はペトルスと考えが近かった。</ref>。
 
ペトルスは[[1061年]][[7月]]のニコラウス2世の死後におこった教会の分裂([[シスマ]])すなわちアレクサンデル2世と[[ホノリウス2世 (ローマ教皇)|ホノリウス2世]]の争い<ref>改革派がアレクサンデル2世を選出したのに対し、ローマの都市貴族と改革反対派の司教は神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]に教皇の選出を求めた。こうして帝国議会においてピエトロ・カダルスがホノリウス2世として選出されたが、幼い皇帝の摂政であった母后アグネスの失脚とともに実権を握ったアンノにより、後述のアウグスブルク教会会議が開かれ、決定は覆されることになる。</ref>において、アレクサンデルに価値ある支援を与えた。 効果はなかったものの、パルマ司教ピエトロ・カダルス<ref>ホノリウス2世のこと。</ref>に思いとどまるよう全力で説得を試みた。このシスマは最終的に、ペトルスの議論を読んだ[[ケルン大司教]]でありドイツの摂政であった[[アンノ2世]]によって[[1062年]][[10月]]アウグスブルクに教会会議が召集され、アレクサンデル2世を事実上教皇と認める決定<ref>[[公会議]]によって決定が下るまでは、アレクサンデル2世が教皇としての職務を遂行するという決定であった。事実上アレクサンデル2世を教皇と承認したことになる。</ref>が出されることにより決着した。
 
[[1063年]]に、アレクサンデル2世はローマで教会会議を開き、ペトルスはクリュニー修道院と[[マコン]]の司教たちの間で起こった論争を解決する使節に任命された。ペトルスは[[フランス]]に到着すると、[[シャロン=シュル=ソーヌ]]([[:en:Chalon-sur-Saône|Chalon-sur-Saône]])に教会会議を召集し、クリュニー側の主張を認め、フランスの教会で争われていたその他の問題も解決して、秋にフォンテ・アヴェッラーナに帰還した。ペトルスがフランスに滞在している間、対立教皇ホノリウス2世はローマを占領しようと活発な動きを示したが、ペトルスはこれを抑えるためにもう一度神聖ローマ皇帝の助力を仰ごうとして、ヒルデブラントやアレクサンデル2世の叱責を受けた。
 
[[1067年]]に、ペトルスは司教と[[ヴァッロンブローザ修道院]]の修道士の間での論争を解決するためにフィレンツェに派遣された。司教は修道士たちによって聖職売買をしたと訴えられていた。しかしペトルスは事実関係の判断を誤り、司教の側を支持したので、この仕事は結局失敗に終わった。この問題は翌年に教皇自身によって裁定が下されるまで解決しなかった。
 
==参考文献==
6,143

回編集