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'''牧野 忠訓'''('''まきの ただくに''')は、[[江戸時代]]の[[大名]]。[[越後長岡藩]]の第12代藩主。長岡藩系牧野家宗家13代。
 
{{武士/開始|牧野忠訓}}
{{武士/時代|[[江戸時代]]末期([[幕末]])から[[明治時代]]前期}}
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{{武士/藩|[[越後国]][[越後長岡藩|長岡藩]]主}}
{{武士/氏族|[[本庄氏]]→[[牧野氏]]}}
{{武士/父母|父:[[本庄松平宗秀]]、母:[[大久保忠真]]の7女・偶子<br>養父:''[[牧野忠恭]]''}}
{{武士/兄弟|[[本庄松平宗武]]、'''牧野忠訓'''、[[朽木綱鑑]]}}
{{武士/妻|正室:牧野忠恭の次女・つね子}}
{{武士/子|養子:''[[牧野忠毅]]''}}
{{武士/終了}}
 
'''牧野 忠訓'''('''まきの  ただくに''')は、[[江戸時代]]の[[大名]]。[[越後長岡藩]]の第12代藩主。長岡藩系牧野家宗家13代。
天保15年(1844年)8月15日、[[丹後国|丹後]][[宮津藩]]主・[[本庄宗秀]]の四男として江戸で生まれる。[[安政]]5年([[1858年]])12月、第11代藩主・[[牧野忠恭]]の養嗣子となり、[[文久]]元年([[1861年]])12月に従五位下、玄蕃頭に叙任する。[[慶応]]3年([[1867年]])7月11日、忠恭が[[隠居]]したため、[[家督]]を継いで藩主となり、駿河守に転任する。しかし忠恭同様、忠訓も[[家老]]の[[河井継之助]]に厚い信任を置き、藩の財政・軍制改革や民政などは全て河井に任せていた。
 
天保15年(1844年)8月15日、[[丹後国|丹後]][[宮津藩]]主・[[本庄松平宗秀]]の四男として江戸で生まれる。[[安政]]5年([[1858年]])12月、第11代藩主・[[牧野忠恭]]の養嗣子となり、[[文久]]元年([[1861年]])12月に従五位下、玄蕃頭に叙任する。[[慶応]]3年([[1867年]])7月11日、忠恭が[[隠居]]したため、[[家督]]を継いで藩主となり、駿河守に転任する。しかし忠恭同様、忠訓も[[家老]]の[[河井継之助]]に厚い信任を置き、藩の財政・軍制改革や民政などは全て河井に任せていた。
 
慶応4年([[1868年]])、[[戊辰戦争]]が起こると、忠訓は河井と共に戦争回避のため、旧幕府と新政府の双方と距離を置きながら、公武調和の建言書を新政府に提出する。さらに河井自身は新政府の北越平定軍に乗り込んで停戦を求めたが、これらは全て新政府によって握りつぶされてしまった。このため忠訓は5月4日、河井と共に[[奥羽越列藩同盟]]に参加して新政府軍と戦うことになる。河井の優れた指揮の前に[[榎峠の戦い]]で新政府軍は一時圧倒されるが、結局圧倒的な物量を誇る新政府軍の前に敗れて5月19日、[[長岡城]]は落城し、忠訓は忠恭らと共に会津に逃れた。
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忠訓は明治2年([[1869年]])9月に罪を許されて謹慎を解かれた。そして観山と号す。明治5年([[1872年]])には従五位に復することも許された。明治8年(1875年)6月16日、長岡で死去。享年32。墓所:[[新潟県]][[長岡市]]東神田の栄涼寺。
 
{{先代次代|[[越後長岡藩|牧野氏(長岡藩12代)藩主]]|1867~18681867年 - 1868年|[[牧野忠恭]]|[[牧野忠毅]]}}
 
[[Category{{DEFAULTSORT:本庄氏|まきの たたくに]]}}
{{先代次代|[[越後長岡藩|牧野氏(長岡藩12代)藩主]]|1867~1868|[[牧野忠恭]]|[[牧野忠毅]]}}
[[Category:本庄氏]]
 
[[Category:本庄氏|まきのたたくに]]
[[Category:牧野氏|たたくに]]
[[category:江戸の大名|まきのたたくに]]
[[category:譜代大名|まきのたたくに]]
[[Category:1844年生|まきのたたくに]]
[[Category:1875年没|まきのたたくに]]