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'''ドゥア'''(
[[1270年]]
その後、情勢の変化からカイドゥに服属することになり、逆にカイドゥと対立するようになったチュベイらが、モンゴル帝国の[[ハーン|大ハーン]]である[[クビライ]]の政権、[[元 (王朝)|大元]]に逃亡したので、[[1282年]]になってカイドゥによって空席となっていたチャガタイ家の当主の座に据えられた。しかし実際にはドゥアはカイドゥの傀儡であり、カイドゥが中央アジアに成立させた「カイドゥ王国」の一部をなす諸王に過ぎなかった。
[[1301年]]、カイドゥがモンゴル帝国中央政府である[[元 (王朝)|大元ウルス]]との戦いで陣没すると復権を図り、大元ウルスと連携してカイドゥの後を継いだ[[チャパル]]を攻め、[[1306年]]にはチャパルを追放して[[オゴデイ・ハン国|カイドゥの国]]の領土を併合し、中央アジア一帯にチャガタイ・ハン国の広大な支配圏を築き上げた。このとき、[[モンケ]]の粛清以後、政権としては解体同然であったチャガタイ家のウルスが、実質的に後世チャガタイ・ハン国と呼ばれる姿で建国を果たしたのであった。さらに[[インド]]北部にも進出し、チャガタイ・ハン国の最盛期を築き上げたが、1306年冬に病を得て死去した。▼
[[1301年]]、カイドゥが元との戦いで陣没するとカイドゥ王国内における長老として発言力を増し復権をはかった。ドゥアはまずカイドゥによって生前後継者に指名されていたオロスを遠ざけてカイドゥの長男[[チャパル]]を後継者に推し、チャパルの即位を実現させた。やがてチャパルとオロスがオゴデイ家の主導権をめぐって抗争をはじめると今度はチャパルと対立関係になり、オゴデイ家の内紛を好機とみて[[アルタイ山脈]]を越え、[[ジュンガリア]]に侵攻してきた元軍と連携してチャパルを攻めた。
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チャパルはさらに[[インド]]北部にも進出しチャガタイ・ハン国の最盛期を築き上げたが、まもなく病を得て死去した。
[[Category:モンゴル帝国|とうあ]]
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