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'''渋川 義陸'''(しぶかわ よしたか、生年不詳-[[1538年]]([[天文]]7年)[[8月20日]]没)は、][[戦国時代 (日本)||戦国時代]]の[[武将]]。[[本姓]]は[[源氏]]。[[家系]]は[[清和源氏]]の一家系 [[河内源氏]]の流れを汲む[[足利氏]]の傍流 [[渋川氏]]。[[足利将軍家]]の[[御一家]]。[[備後国]][[小童山城|小童山]][[城主]]。 [[諱]]は義陸。足利将軍家より義の字を偏諱として受けたもの。[[官位]]は[[右衛門佐]][[従五位|従五位下]]。[[法号]]は入道浄栄。子は[[嫡男]] [[渋川義正]]。次男に[[渋川頼基]]。
 
渋川氏は足利氏の支流であるばかりでなく、室町幕府2代将軍[[足利義詮]]の正室の生家でもあり[[吉良氏]]や[[斯波氏]]同様、足利氏一門の中でも将軍家の家族として遇された[[名門]]である。[[渋川満行]]の代に御調を号し、御調姓をもって称されることもある。備後国御調に494石
4斗6升7合を領有した他、一門嫡男[[渋川兵部]]義正が[[安芸国]][[高田]]と[[備後国]]三谷で合わせて37石6斗を領したという。
 
[[1526年]]([[大永]]6年)、御調別宮の領内、現在の三原市小幡町美生のあたりに[[小童山城]]を築城し、以後、備後渋川氏の居城とする。渋川義陸はその勢力の安泰を図るため、安芸・備後二ヶ国に所領を有する幕府[[奉公衆]]にして有力[[国人]] 小早川氏と親交し、[[1507年]]([[永正]]4年)当主 [[小早川扶平]]に御調の所領の一部を譲与している。これにより尼子氏の侵攻を受けた際も小早川氏の援軍を以って撃退している。