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'''増田 宗太郎'''(ますだ そうたろう、[[嘉永]]2年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]([[1849年]][[3月17日]]) - [[明治]]10年([[1877年]])9月)は、[[中津藩]]下士増田久行の嫡男。母は九州国学の三大家の一人、[[渡辺重名]](しげな)の娘。父は福沢百助の妻のいとこ。
 
国学を学び、攘夷思想をもっていた。[[福澤諭吉]]の再従弟に当たり、住まいも近所で親しい交際があったが、明治3年([[1870年]])、福澤が帰郷した際、寝込みを襲おうと暗殺を企てた。しかし、福澤は来客した[[服部五郎兵衛]]と夜通し飲み明かしたためこの計画は失敗している。ただし、異説もある。
 
維新後は攘夷思想を改め自由民権運動にも参加。[[西南戦争]]に賊軍側として従軍、中津隊を率いた。和田峠の戦いで敗れた後、西郷が解軍の令を出し、故郷へ帰る隊もある中、西郷に付き従った。司馬遼太郎も著書で引用した「1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある」とは増田の言葉である。最後は城山の戦いで戦死したとも捕えられて斬首されたともいう。
 
[[太平洋戦争]]中は、福沢が貶められ、それを暗殺しようとした逆に増田が持ち上げられ、生家跡地には神社まで建立されたという。戦後、評価は元に戻り、現在、増田の生家跡地は小さな公園になっている。
 
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