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[[Image:Stanislaw Szuszkiewicz 1.JPG|right|250px200px|thumb|スタニスラフ・<small>ワルュシケヴィチャワにて、2006年7月8日</small>]]
'''スタニスラフ・シュシケヴィチ'''('''<font lang="be">Станісла́ў Станісла́вавіч Шушке́віч</font>''','''Stanislav Shushkevich''',[[1934年]][[12月15日]] - )は、[[ベラルーシ]]の[[政治家]]。ヤゲロォー大学教授。ベラルーシ[[最高会議]]議長(在任期間[[1991年]][[9月18日]]から[[1994年]]1月)。[[ビエト邦]]崩壊後、独立したベラルーシの初代の[[国家元首]]。[[ロシア語]]、[[ポーランド語]]に堪能。
 
==略歴==
1934年[[ソビエト連邦]][[白ロシア共和国]]の[[首都]][[ミンスク]]に生まれ。交換教授として[[ポーランド]]の[[クラクフ]]にあるヤゲロォー大学に勤務するした
 
[[1989年]]ソ連[[人民代議員大会]]代議員選挙にベラルーシ人民戦線派から立候補し当選するした。デメンティ最高会議議長の下で第一副議長。[[1990年]]にベラルーシ最高会議は[[主権]]宣言を採択し同時に非核地帯であることも宣言された。1991年[[ソ連8月クーデター]]を支持したデメンティ最高会議議長の後任として、9月18日ベラルーシ共和国最高会議議長([[国家]][[元首]])に選出され。シュシケヴィチは、ベラルーシの[[ベロヴェーシの森]]で[[ロシア]]の[[ボリス・エリツィン|エリツィン]]大統領、[[ウクライナ]]の[[レオニード・クラフチュク]]最高会議議長とともに会談を持ち、ソ連の解体、[[独立国家共同体]](CIS)の結成を決定した(ベロヴェーシの森の陰謀)。
 
シュシケヴィチは、CISの統合強化には消極的で、[[1992年]]5月CISの[[集団安全保障]]協定に調印することを拒否し、協定調印に積極的な最高会議と対立した。[[1993年]]4月ベラルーシ最高会議は、CIS集団安全保障協定への調印を圧倒的多数で決議したが、シュシケヴィチは再度調印を拒否し、議会と決定的な対立に至った。また、経済運営でも、独立後の深刻な生産力の低下と[[インフレーション|ハイパーインフレーション]]に見舞われ、経済危機が深刻化し、政権は弱体化していった。1994年1月最高会議議長を解任され
 
[[1994年]]3月ベラルーシ最高会議は新[[憲法]]を採択し、[[大統領]]制を導入することとなった。シュシケヴィチは、1994年6月に行われた大統領選挙に立候補したが、[[検事]]出身の[[アレクサンドル・ルカシェンコ]]に敗れた。[[2005年]]現在、[[野党]]代表として活動している。
==外部リンク==
*[http://www.geocities.jp/hmichitaka/shush.htm シュシケヴィチ・インタビュー]
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[[be:Станіслаў Станіслававіч Шушкевіч]]