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日本において「升」という単位は[[大宝律令]]にまず見られる。古代中国における1升は現代の1合程度であったが、[[唐]]代には3合程度になり、日本に伝わるころには4合程度になっていた。日本では、当時の唐の升を導入し、大升を約0.71リットル(新京升の約0.4倍)、その3分の1の小升を約0.24リットル(同0.1倍)としたとの説がある。
以上を含め奈良時代の升量については、江戸時代の学者によるものをはじめ各種の説があるが、いずれも律や令の記述と中国の度量衡制度からの推定に過ぎなかった。しかし、澤田吾一は、奈良時代の穀倉の大きさから割り出し、当時の1石として2800立方寸を得た。当時使われていた尺度から現在の升量に換算すると、当時の1升は現升の0.4升に当たる(澤田吾一『奈良朝時代民政経済の数的研究』、復刻柏書房)。現在、最も信憑性の高いと信じられている升量である。
律令制の崩壊につれ、各国、後に各地の[[荘園]]で勝手な升が使われるようになった。[[後三条天皇]]は荘園整理を断行し、その一環として[[1072年]]、後に'''[[延久]]の宣旨枡]]'''(せんじます)と呼ばれる公定の升を定めた。この量についてもよく分かっていない。文献的には現升の0.6270(『伊呂波字類抄』)、0.8223(『東盛義所領注文案裏書』)、0.4932(『潤背』)とする記録が残されている(寶月圭吾『中世量制史の研究』、昭和36年、吉川弘文館)。寶月はこのうち『伊呂波字類抄』による0.6270を最も信憑性の高い数値としている。縦横4寸、深さ2寸(32立方寸)の枡で、0.81リットル、新京枡の0.45倍の容積とするのは、鎌倉末期に成立した『潤背』によるものであり、これは本文で「寛治宣旨」となっており、延久年間に宣旨升が出されたことに明らかに反しており、信用できないとする。ただ、古制を復古したはずだとする説によってこれを採用する研究者もいる(小泉袈裟勝『図解単位の歴史辞典』、柏書房)。ただ、寶月による0.6270も尺度を中世に普遍的に使われた曲尺として計算しているが、『伊呂波字類抄』は遅くとも平安末期には成立していたので、律令尺は、曲尺の0.97に当たるので現升の0.5722升に当たるものと推定される。[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]末期ごろまで、京都から関東、九州まで宣旨升による文献が見いだされているが、どの程度普及したかは明かではない。
 
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]以降は宣旨枡の検定がほとんど行われなくなり、各地でその地域だけで通用する升が作られた。しかし、商業の活発化は、自ずと市場で共通する升を生み出すこととなった。これが見世升とか町枡といわれる商業升であり、これは新京升よりやや小さく、古京升に近い量をもっていたと考えられる(寶月圭吾『前掲書』)。奈良においては、興福寺が標準となる升を公定していたため、新京枡の0.8程度の升が市場で使われていた(『多聞院日記』)。これは、奈良における状況を示したものであり、これを京都もしくは全国にまで広げるのは誤りである。