「三遊亭志ん蔵」の版間の差分

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'''三遊亭 志ん蔵'''(さんゆうてい しんぞう)([[1887年]][[2月18日]] - [[1964年]][[10月10日]])は、[[大阪]][[天満寺町]]出身の[[落語家]]。本名は田辺 米三郎。俗に「幽霊志ん蔵」または「冷やし飴の志ん蔵」。
 
[[桂文蝶]]等と同じ[[天狗連]]出身で[[1909年]]に上京し[[雷門助六|5代目[[雷門助六]](後の [[古今亭志ん生 (3代目)|3代目古今亭志ん生]])に入門し'''昇六'''で初高座。[[柳亭左龍 (2代目)|2代目柳亭左龍]](俗に「江戸名残の怪談師」)の元で落語を稽古付けてもらい、怪談噺に精進する。師匠助六が志ん生襲名を機に自身も'''志ん蔵'''と改名。[[江戸]]と[[上方]]の[[寄席]]を行き来する生活が始まる。
[[1923年]]の[[関東大震災]]で震災し江戸を離れ大阪を定住し[[吉本興業]]専属となり[[三遊亭圓子]]の門下になり三遊亭'''志ん蔵'''と改める。
圓子と共に旅回り専門となり全国を怪談噺だけで旅に出る。この頃に「幽霊志ん蔵」と呼ばれるようになる。
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絵心があり[[笑福亭松鶴 (5代目)|5代目笑福亭松鶴]]の楽語荘の同人で「上方はなし」の挿絵を描いていた。
 
散歩中にスクーターに足を惹かれて骨折し高座を離れる。晩年は弟子もおらず身寄りがなく、大阪養老院で[[桂米朝 (3代目)|3代目桂米朝]]、[[旭堂南陵|3代目[[旭堂南陵]]に世話になる。
 
得意ネタは初代[[三遊亭圓朝|初代三遊亭圓朝]]の古い型の「[[四谷怪談]]」「[[牡丹燈籠]]」「[[お岩]]」「[[二人お岩]]」など。
 
==出典==