「川上哲治」の版間の差分

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*2000本安打達成者であるが、[[名球会]]の入資格条件「昭和以降の生まれ」に該当しない。ただし、名誉会員資格がある。
*1500本・2000本安打の到達試合数は、2006年現在もなお日本プロ野球最速記録である(日米通算ではいずれも[[イチロー]]が上回る)。
*無愛想で口下手な性格のためマスコミとは現役時代から折り合いが悪く、川上が監督時代に練習に集中させるために報道規制を行った時は「'''哲のカーテン'''」などと悪意的に揶揄された。また、生来の口下手に加え、何事にも熱中する凝り性な性格と「肥後もっこす」と称される頑固で妥協しない性格だったため、周囲と衝突することも多く、現役時代の千葉(後の近鉄監督)、[[与那嶺要]](後の[[中日ドラゴンズ|中日]]監督)、[[広岡達朗]](後の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]、[[西武ライオンズ|西武]]監督)とは犬猿の仲であったといわれる。広岡とは後に和睦したが、与那嶺は川上との過去の確執から巨人のOB会に参加していない。
*ちなみに川上と広岡の確執だが、[[1964年]][[8月6日]]の国鉄戦([[明治神宮野球場|神宮]])において、広岡の打席の時三塁にいた長嶋が独断でホームスチールを試みて失敗したにも関わらず、巨人ベンチが特にそれをとがめようとしなかったことから「私のバッティングがそんなに信用できないのですか!!」と当時の川上監督に噛み付いたことが原因とされている(※詳しくは広岡の著書を参照)。
*周囲の悪評を気にしていないというイメージで見られていたが、内心はそうでもなかったようである。特にV9の後半([[1970年]]以降)、自らが率いるチームが優勝したにも関わらず「川上の野球はつまらない」「[[三原脩]]の爪のアカでも煎じて飲め!!」とこき下ろされるのを見て、「何で私の率いるチームが勝つだけで悪く言われるのだろう。私はファンの期待にこたえているだけなのに」と悶々としていたと、後に本人が明かしている。
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*さらに、川上は「スタルヒンの横で投げると、自分の方が球が遅く見えるので、スタルヒンと一緒に投球練習するのを沢村は嫌がっていた」と証言している。ならば、なぜ世間的には沢村の方が評価されているかというと、スタルヒンは戦争を生き延びて戦後のプロ野球でも活躍したが、敵性人種として抑留されていた影響で、スタルヒンは戦後にはもう全盛期を過ぎており、衰えたスタルヒンを見たことがある人の方が多いためで、その上全盛期のスタルヒンの映像が残っていない(沢村の映像は残っている)ことが影響している。
*代名詞となっている「赤バット」であるが、戦前のある日川上の元にやってきた野球道具メーカーの社員が、「バットの色は何色にしますか?」といってきたのに対し、川上が冗談で「それでは赤にしよう」というと、本当に赤いバットが川上の元に届けられた。川上が試しに使ってみると非常にバッティングの調子が良かったという。このときは約1ヶ月ほどしか使用しなかったのだが、戦後プロ野球の復興の際、ファンサービス目的もあり、再び使い始めた。また、「ベースボールマガジン」誌によれば、メーカー側が(バットの向こうにボールを通さないと言う意味で)'''赤信号'''と引っかけたとのこと。
*V9時代のユニフォームは1961年、川上の監督就任とともに登場し、川上が勇退する1974年までの14年間の長きにわり使用された(川上監督勇退後は廃止されるが、[[1981年]]にV9時代のスタイルが復活。ホーム用が2度のマイナーチェンジを挟んで1992年まで、ビジター用が[[1986年]]のマイナーチェンジを挟んで1992年まで使用された)。また、V9当時のデザインを復刻したユニフォームを[[2007年]]の[[日本生命セ・パ交流戦]]で巨人5000勝記念として4試合限定で使用した(ホーム、ビジター各2試合ずつ、試合はすべて[[東京ドーム]])。
 
== 川上哲治を演じた俳優 ==