「瀬島龍三」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
21行目:
 
==来歴・人物==
[[農家]]にうまれる。富山・[[富山県立砺波高等学校|旧制富山県立砺波中学校]]、[[陸軍幼年学校]]を経て、[[陸軍士官学校]]を次席(首席は原四郎)で卒業。[[陸軍大学校]]を首席で卒業し、[[昭和天皇]]から[[恩賜の軍刀]]をたまわる。
 
[[太平洋戦争]]時、[[大本営]][[参謀]]として[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル撤収作戦]]、[[ニューギニアの戦い|ニューギニア作戦]]などを担当。[[1945年]]7月、[[関東軍]]参謀に転出。最終階級[[陸軍中佐]]。降伏後停戦交渉におもむくも、[[シベリア]]へ11年間抑留される。この間、連合国側から[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]に証人として出廷することを命じられ、[[1946年]][[9月17日]]に[[草場辰巳]]、[[松村知勝]]とともに[[ウラジオストク]]から空路[[東京]]へ護送され、[[ソビエト連邦|ソ連]]側証人として出廷させられた。
 
[[シベリア抑留]]から帰還後、[[1958年]]に[[伊藤忠商事]]に入社。入社3年目にして業務部長に抜擢([[1961年]])。 翌[[1962年]]取締役業務本部長、半年後に常務、[[1968年]]に専務、[[1972年]]に副社長、[[1977年]]に副会長、[[1978年]]に会長、[[1981年]]に相談役、[[1987年]]に特別顧問に就任。
 
[[帝国陸軍]]の[[参謀本部]]の組織をモデルにした「瀬島機関」と呼ばれる直属の部下を率いて総合商社化などに辣腕をるい、[[2000年]]に退任した。[[中曽根康弘]]首相(在任期間[[1982年]][[11月27日]]~1987年[[11月6日]])のブレーンとして[[第二次臨時行政調査会|土光臨調]]委員などを務め政治の世界でも活躍した。
 
== エピソード ==