「霊友会」の版間の差分
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このように、霊友会の修行は、自らの悟りと他者の悟りを同時に希求するという正に「菩薩行」そのものであり、先祖の供養も含めてすべて菩薩行の一環であることがわかる。
==分裂・分派発生と解釈の多様性の要因==
創立者である久保角太郎によって発想された在家の菩薩行としての霊友会の修行体系の上記のような趣旨が、必ずしも正確に会員に徹底されていたとは言えない面もあるようである。
その要因の一つは、霊友会が個人一人一人の自らの体験を重んじ、理屈だけで分かった積りになる事を避ける為に、敢えて教条化された「教義」というものを提示せず、「人を見て法を説く」というポリシーを貫いたことにあると思われる。ただ、そのようなポリシー自体は、釈尊の基本姿勢に忠実に従ったものであり、本来、画期的であるとさえ言えるものである。しかし、その画期的なポリシー故に、人から人に伝わるうちに、様々な独自な解釈が入り込む余地を残してしまったことも否定できない。
教条主義で塗り固められ、全ての信者が同じ考えで同じ行動様式をとるのも、不気味であるが、霊友会のように個人の自由と主体性が重んじられるあまり、様々な解釈や様々なグループの分立を許してしまうのも、教団の大きな弱点の一つになっていると言えよう。
霊友会から、分派した団体は主なものだけでも十数団体を数え、その総会員数は優に創価学会を越えるとも言われるが、それぞれの団体の解釈には大きな幅があるようである。
当の霊友会本体においても、本来、「先祖供養」は菩薩行の一環としての手立てであったはずだが、いつの間にかそれが目的化して、霊友会の教えは「先祖供養」であるというような捕らえ方が目立つようになり、菩薩行の実践という本来の目的がないがしろにされるケースが少なからず見られたようである。
創立者の久保角太郎の子息である久保継成は、そのような解釈のずれを修正すべく、さまざまな改革を断行したが、趣旨の徹底に成功したとはいえないようである。個人の体験と主体性が重んじられる会の体質においては、誰の意見であっても相対化されてしまう傾向があり、特定の解釈を浸透させる事は容易な事ではなかったようである。
久保継成は結局、会内部での改革をあきらめ、久保角太郎の創立の精神を自覚した会員達とともに、在家仏教こころの会という別団体を設立する事になる。
==註==
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