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[[武士]]階層は、[[所領]]の防衛などのために対立相手に戦いをしかけることがあった。[[鎌倉時代]]にはこれを「'''故戦防戦'''」と呼んだ。中央権力の威信が低下した時代にはこうした戦いがしばしば行われていた。
 
[[朝廷]]や幕府はこうした行為を禁じた。[[平安時代]]の朝廷は私軍・私戦によるに対しては一切の黙殺と不干渉の措置を取った[[平将門の乱]]において[[平将門]]が[[国司]]襲撃という[[公]]に対する[[反逆]]行為に出るまで鎮圧を行わなかったこと(逆に私戦を行って秩序を乱している点では対立する[[平貞盛]]なども同一であり、将門の乱初期においては将門に貞盛追討が命じられこともある)や[[後三年の役]]において[[源義家]]の配下に[[恩賞]]を与えなかった事がその例である。その後、[[武家政権]]である[[鎌倉幕府]]が成立すると、これを積極的に抑制する方針に転じ、[[延慶]]3年([[1310年]])に[[刈田狼藉]]を犯罪と規定するなど私軍・私戦の原因を絶つ政策を採った。
 
日本から私軍・私戦が一掃されるのは[[豊臣政権]]の[[惣無事令]]施行とその違反者に対する「[[公儀]]の軍勢による[[征伐]]」([[小田原の陣]]・[[奥州仕置]])によってこの方針の貫徹が行われて以後の事になる。