「嘉納治五郎」の版間の差分

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柔術二流派の技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作り上げ、大学卒業後の明治15年([[1882年]])[[5月5日]]、柔道場を下谷北稲荷町16(現[[台東区]]東上野5丁目)永昌寺の12畳の居間と7畳の書院に設け、[[囲碁]]、[[将棋]]から[[段級位制|段位制]]を取り入れ「精力善用」「自他共栄」の言葉を掲げた[[講道館]]を設立した。
 
一方で、明治15年1月から[[学習院]]教頭、[[東京高等師範学校]](現[[筑波大学]])校長、[[第五高等学校 (旧制)|旧制第五高等学校]](現[[熊本大学]])校長などを務め(部下の教授に、[[夏目漱石]]、[[小泉八雲]](ラフカディオ・ハーン)等がいた)、旧制[[灘中学校・高等学校|灘中学校]]の設立にも関わるなど教育者としても尽力する。また、中国人留学生の受け入れにも努め、[[牛込]]に[[弘文学院]](校長[[松本亀次郎]])を開いた。のちに文学革命の旗手となる[[魯迅]]もここで学び、嘉納に師事した。魯迅の留学については[[2007年]]、[[温家宝]]来日の際、国会演説でもとり挙げられた。また、旧制第五高等学校の校長だった頃、旧[[熊本藩]]の体術師範だった[[星野九門]]([[四天流柔術]]家・[[星野九門]]と交流している。
 
[[1909年]]には日本人初の[[国際オリンピック委員会|IOC]]委員となり、[[1911年]]に大日本体育協会(現[[日本体育協会]])を設立してその会長となる。[[1912年]]、[[ストックホルムオリンピック]]の日本オリンピック初参加に於いては団長として参加した。