「フォールン・ティンバーズの戦い」の版間の差分

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当時としては最強のインディアン同盟である西部五大湖同盟は、アメリカ合衆国軍に[[1790年]]と[[1791年]]に勝利し、[[ジョージ・ワシントン]]大統領の執政に警告を鳴らしていた。[[1792年]]、ワシントンは[[アメリカ独立戦争]]の古参士官[[アンソニー・ウェイン|"マッド・アンソニー"ウェイン]]将軍を呼び付け、新しい軍隊を作って指揮することを命じた。ウェインはインディアンに対する前の2つの遠征隊が訓練と規律が足りなかったために失敗したと信じ、活発な準備を始めた。
 
ウェインには新しい軍隊を鍛える時間がたっぷりあったので、[[1793年]]の夏は休戦交渉が行われた。アメリカは独立戦争の勝利の結果として[[イギリス]]から奪った[[オハイオ川]]より北の領土の支配を確固たるものにすることを求めていた。既にアメリカの開拓者は[[オハイオ州|オハイオ郡領土]]に移住を始めていた。
 
しかし、ショーニー族の酋長ブルージャケットと[[レナペ|デラウェア族]]の指導者バッコンガヘラスは、合衆国軍に対する最近の勝利で意気上がり、またイギリスの支援も期待して、[[1768年]]の[[スタンウィックス砦条約]]で定められたオハイオ川の境界線を死守しようとした。インディアンは、合衆国にオハイオ川の北の領土を渡すことになるその後の条約を拒否していた。モホーク族の影響力のある指導者[[ジョセフ・ブラント]]によって指導されるインディアンの一派が妥協の交渉を試みていたが、ブルージャケットとその同盟者は、合衆国が拒んだオハイオ川境界以外の何ものも受け入れなかった。