「マファルダ・ディ・サヴォイア」の版間の差分

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1925年9月23日、ラッコニージ城でフィリップと結婚。夫は[[ナチス]]信望者で、彼の弟クリストフはナチス幹部であった。[[ファシスト]]支配下のイタリアから来た王女と、ナチス支持者の結婚により、フィリップの地位は内部で中間まで上がった。しかし、[[第二次世界大戦]]中、[[アドルフ・ヒトラー]]はマファルダを反ナチスだと信じていた。一家はローマ郊外の館に居をかまえ、ドイツと行き来していた。フィリップはヘッセン=ナッサウ知事を務めた。
 
1943年9月初旬、マファルダは義弟であるブルガリア王[[ボリス3世 (ブルガリア王)|ボリス3世]]の葬儀に出席するため、ブルガリアへ向かった。その間に、彼女は故国が[[連合国]]側に降伏したこと、子供たちが聖域である[[ヴァティカン]]に保護されたこと、夫が知事職を解かれ、逮捕され[[バイエルン州|バイエルン]]にいることを知らされた。[[ゲシュタポ]]は彼女の逮捕を命じた。9月23日、幹部[[カール・ハス]]自らマファルダに電話し、夫から重要な伝言があることを告げた。ローマのドイツ大使館へやってきたマファルダは逮捕され、尋問を受けるため[[ミュンヘン]]や[[ベルリン]]へ護送されたのち、[[ブーヒェンヴァルト強制収容所]]([[ヴァイマル]]近郊)へ送られた。
 
1944年8月24日、収容所内の弾薬工場が連合国によって爆撃された。400人の収容者たちが殺され、マファルダは瀕死の重傷を負った。彼女は工場近郊に収容され、攻撃が始まると残骸で首まで埋まり、腕はおびただしい火傷を負っていた。収容所の混乱した状況のなか、腕は感染症に冒されたため医療班により切断された。手術前からマファルダは意識を回復することなく、1944年8月26日から27日にかけての夜に亡くなった。