「ニコラ・リュクネール」の版間の差分

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[[1722年]][[1月12日]]、リュクネールは[[バイエルン公国|バイエルン]]の[[ヒャム]]で市民の家に生まれた。[[パッサウ]]の[[イエズス会]]の[[修道院]]に入れられたが、やがてそこを抜け出して[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]軍の[[騎兵]]隊に加わった。その後[[ハノーファー王国|ハノーファー]]軍に加わり、騎兵隊の士官として[[七年戦争]]を戦った。[[1764年]]、リュクネールは[[フランス]]軍に[[中将]]として仕官した。[[1784年]]、リュクネールは[[デンマーク]]王から[[伯爵]]の爵位を授けられた。
 
[[1789年]]、[[フランス革命]]が勃発すると、リュクネールは革命政府を支持し、[[1791年]]に陸軍[[元帥]]に列せられた。[[1792年]]、リュクネールはライン方面軍司令官に任命された。[[4月24日]]、フランスが[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]に宣戦布告したとの一報がもたらされた。[[ルージェ・ド・リール]]大尉はライン方面軍の行進歌として『ライン軍のための軍歌』 (Chant(Chant de guerre pour l'armée du Rhin)Rhin)を作詞作曲し、司令官のリュクネールに献呈した。後にこの曲がフランス国歌[[ラ・マルセイエーズ]]となった。
 
その後、ライン方面軍司令官から北方軍司令官となったリュクネールは、[[フランドル]]の[[メナン]]や[[コーリック]]を攻略したが、逆に[[リール (フランス)|リール]]を喪失した。1792年8月、[[ラファイエット]]が亡命した後、リュクネールは[[シャロン=アン=シャンパーニュ]]の予備軍の司令官に降格された。[[国民公会]]はさらに彼の解任を考え、ピエール・コデルロス・ド・ラクロにリュクネールを補佐するか、あるいは取って代わるように命じた。リュクネールは抗議のために[[パリ]]に向かった。しかし、ここで政府に逮捕され、革命裁判所によって斬首を宣告された。[[1794年]][[1月4日]]、リュクネールはパリで[[ギロチン]]にかけられ、71歳で亡くなった。