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'''竹腰 正信'''('''たけのこし まさのぶ'''、[[天正]]19年([[1591年]]) - [[正保]]2年[[4月30日 (旧暦)|4月30日]]([[1645年]][[5月25日]]))は、[[江戸時代]]初期の[[武士|武将]]。[[尾張藩]][[附家老]]を務めた竹腰家の祖。[[美濃国]][[今尾藩|今尾]]を領した。[[竹腰正時]]の子。正室は[[大久保忠隣]]の養女(孫)の春。子に、[[竹腰成方|成方]]、[[竹腰正晴|正晴]]、[[竹腰正辰|正辰]]。幼名は万丸、小伝次。別名は正次、正徳。
 
[[文禄]]3年([[1594年]])に実母・[[お亀の方]]が[[徳川家康]]の[[側室]]となり、[[慶長]]5年([[1600年]])に五郎太丸(後の[[徳川義直]])を生むと、異父兄である正信も召し出されて近仕し、翌年に[[甲斐国]]に5000石を与えられる。家康が[[大御所]]となって[[駿府城|駿府]]に移ると[[本多正純]]・[[安藤直次]]・[[成瀬正成]]とともに側近となり、慶長12年([[1607年]])には成瀬と共に義直の後見に任じられる。尾張に5000石を加増されて1万石を領し、慶長16年([[1611年]])には従五位下山城守に叙任されたほか、継嗣のいないまま死去した当時の尾張藩執政[[平岩親吉]]に代わって22歳の若さで執政に任じられ、[[名古屋城]]の普請を監督。翌年には将軍[[徳川秀忠|秀忠]]の御前で砲術の腕前を披露したとして褒美として1万石を賜ったほか、[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])には義直から1万石を加増されて都合3万石を領し、美濃の今尾を居所とした。以降、竹腰家は成瀬家とともに、幕末まで尾張藩の附家老を務める家柄となる。