「本多忠周」の版間の差分

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父親の[[本多忠義|忠義]]から[[陸奥国]][[白河藩]]内で2,500石を分与され別家をたてる。[[元和 (日本)|元和]]元年([[1681年]])に[[三河国]]加茂郡に5,000石で移封。翌年、[[丹波国]]内に2,000石を加増される。[[天和 (元号)|天和]]3年([[1683年]])2月2日に[[寺社奉行]]に任じられるのと同時に3,000石を加増され、合計1万石となり諸侯に列した。
 
[[貞享]]4年(1687年)5月14日に将軍[[徳川綱吉]]より、[[坂本重治]]とともに勤務怠慢からとして寺社奉行を免職され、2年後の[[元禄]]2年(1689年)6月4日には、加増分の3,000石を没収されて[[旗本]]に戻った。金森左京家・[[金森近供]]の三男[[本多忠知|忠知]]を養子とした。
 
{{先代次代|[[足助藩|本多氏(足助藩)藩主]]|1683~1689|-|廃藩}}