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'''衆徒'''(しゅと)は、'''堂衆'''(どうしゅ/どうしゅう)とも呼ばれ、本来は[[平安時代]]以後に大寺院に居住して学問・修行の他に寺内の運営実務にあたった[[僧侶]]身分のこと。[[大衆_(仏教)|大衆]]の主力であり、衆徒のみを指して「大衆」と呼ぶ場合もある。特に[[興福寺]]が[[守護職]]を務めた[[大和国]]では、国内の武士を自寺の衆徒として組み入れたために同国の武士(大和武士)を指して衆徒と呼ぶ場合もある。
 
一般的に[[学侶]]よりも下位、[[行人_(仏教)|行人]]よりも上位とされ、寺院内の警備や管理運営などの実務なども扱った。中下級の[[貴族]]や[[武家]]・[[荘官]]などの出身者が多かったため、武術などの心得を持つものもあり、武装化して[[僧兵]]を構成したのもこの身分が中心であった。大衆僉議や[[強訴]]など寺院内部の意思決定やその実力行使に中心的な役割を果たした。後に僧侶の身分分化が進み、[[公卿]]などの出身である学侶が寺院内の要職を独占して寺院の経営にも関与しようとすると、行人とともに激しく抵抗した。
 
[[摂関家]]とのつながりが強かった大和国の興福寺は[[鎌倉時代]]に入ると、[[南都]][[奈良]]やがて大和一国の支配権を得るようになった。本来同寺の衆徒は[[太政官符]]によって20名と定められ、[[別当]]や[[三綱]]の補佐にあたることになっていた(官符衆徒)が、次第に[[一乗院]]・[[大乗院]]などといった有力な[[門跡]]が自己の発言力の増大のために国内の武士や名主などを[[御家人]]などと称して自己の衆徒に組み入れ、自院の学侶に率いさせて寺内や奈良の町の[[検断]]などに従事させた。また、[[神仏習合]]によって興福寺と一体化していた[[春日社]]の[[神人]]に組み入れられて同様の役割を果たすこともあり、こうした春日社神人を「'''国民'''」と呼んだ。
 
代表的な大和の衆徒として一乗院傘下の[[筒井氏]]・[[越智氏]]、大乗院傘下の[[十市氏]]・[[古市氏]]などがいる。[[南北朝時代_(日本)|南北朝期]]以後、これらの衆徒は自らの支配地域を獲得して[[領主]]化し、興福寺の権威を背景に更なる勢力拡大を図った。[[室町幕府]]第6代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]は、大和国内に幕府の支配権を確立するために両門跡の人事に介入し、更に筒井氏を大和国[[守護代]]に任じた。これに反発した越智氏などが反幕府・反筒井氏の動きを見せ、そこに有力[[守護大名]]も介入して[[応仁の乱]]を挟んだ長期の内紛へと発展した。応仁の乱では東軍の[[筒井順永]]と西軍の[[越智家栄]]・[[古市澄胤]]が激しく争い、以後大和国内は彼らの子孫たちによって群雄割拠された状態で[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]を迎えることになる。
 
戦国時代には[[筒井順昭]]が一時国内の大半を平定して[[戦国大名]]化を進めるが、順昭が急死して幼少の[[筒井順慶|順慶]]が後を継ぐと、越智氏らが反撃して筒井氏の支配は解体、更にその間隙を縫って[[三好長慶]]配下の[[松永久秀]]が大和に攻め込んで順慶を追放、越智氏らを屈服させて[[永禄]]2年([[1559年]])興福寺から大和国守護職の地位を奪った。その後、[[織豊政権]]政権のもとで大和一国の大名として復活した筒井順慶は、対外的には大和国主として国内的には父祖代々継承してきた官符衆徒の代表として[[法印]][[僧都]]の地位に就くという二面性を持った支配体制を確立する。だが、順慶の死後には[[豊臣秀吉]]が弟の[[豊臣秀長|秀長]]に大和一国を与えて、既存の支配体制を否定、衆徒・国民を強制的に解散させ、興福寺に対しては官符衆徒本来の20氏(名)のみを寺内の事務・警備要員として採用して総計380石を与えることを認めたのである。