「院の御子」の版間の差分

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==経歴==
玉葉の記事<ref>脚注</ref>によればこの人物ははじめ[[藤原成親]]の子を自称していたが、[[寿永]]2年([[1183年]])を境に[[藤原資隆]]外孫、の娘を母とする[[後白河法皇]]の子を称していた。[[伯耆国落胤]]を名乗るようなったとされていまで

当初都にあり、[[九条院]]([[近衛天皇]]の[[皇后]])によって養育されていた。[[安元]]2年([[1176年]])[[7月]]、九条院が死去すると各地を転々として[[伯耆国]][[汗入郡]][[大山寺]]、次いで同国[[河村郡]][[三徳山]][[三仏寺]]に移り住んだ。[[寿永]]2年([[1183年]])頃、同国において反[[平氏]]行動を開始、[[紀成盛|海六成盛]]を中心とする[[武士]]団を味方に伯耆の半分と[[美作国]]の一部を支配下に入れた。
 
==脚注==