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[[817年]]([[弘仁]]8年)、安八太夫安次が、龍神と龍神に嫁いだ娘の夜叉姫を祀る祠を、自宅内に建立したのが始まりという。
[[1927年]](昭和2年)、安八太夫安次の子孫、石原家(戸主は代々、石原伝兵衛を名乗る)により、'''夜叉堂'''として整備される。また、境内に[[観世音菩薩|夜叉姫観音]]を祀る。
== 夜叉ヶ池の伝説 ==
詳しくは[[夜叉ヶ池]]を参照。
[[817年]]([[弘仁]]8年)、[[延暦寺]]の[[荘園]]である[[美濃国]]平野庄(現、岐阜県安八郡神戸町)は大かんばつに見舞われた。ある日、郡司の安八太夫安次は、草むらの小さな蛇にため息まじりで、「小蛇よ、もしそなたが雨を降らせてくれたなら、私の娘をやろう。」と語りかけた。▼
▲[[817年]]([[弘仁]]8年)、[[延暦寺]]の[[荘園]]である[[美濃国]]平野庄(現、岐阜県安八郡神戸町)は大かんばつに見舞われた。
この小蛇は揖斐川の上流に住む龍神であり、安次の夢枕に「その願いをかなえよう。」と告げ、その夜、大雨を降らせた。
翌日、約束どおり娘をもらう為、小蛇(=龍神)は若者の姿に変えて安次の前に現れた。安次には3人の娘がいたのだが、安次が娘たちに事情を話すと、一番心がやさしい次女(三女の説もある)が、「村人を救っていただいたからには、喜んでいきます。織りかけの麻布がありますから、これを嫁入り道具にいたします。」と、龍神の元へ嫁ぐことになった。こうして娘は麻布で身をまとい、若者(=龍神)と共に揖斐川の上流へ向かっていった。▼
▲翌日、約束どおり娘をもらう為、
== 所在地 ==
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