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'''田北鑑生'''(たきたあきなり)(?)-[[永禄]]4年([[1561]])11月9日 戦国武将 大友氏家臣 父は[[田北親員]] [[田北鑑重]] [[田北鎮周]]の兄。 また田原親賢と宗麟正妻(奈多婦人)の伯父。
 
大友義鑑の側近として仕える。佐伯惟治の討伐に父に従ってに参加。[[天文]]三年(1534)大内軍が豊後に進行。大将は陶興房と杉重信率いる三千騎あまり。これに対し大友軍は本隊として吉弘氏直と寒田親政を大将として二千八百騎を送った。陶興房は休まず進軍し、奇襲をかけて大友の大将二人を討ち取ってしまう。これに別働隊として千人あまりを率いていた田北鑑生は敗れた本体を収容して疲れていた大内軍に突撃した。激戦により杉重信を討ち取り陶興房に傷を負わせて勝利した。([[熱場ヶ原の戦い]])それ以外にも大友館の修理も行なった。大友義鎮が当主になると[[加判衆]](家老)となる。さらに大友晴英が大内家当主として迎えられる頃には加判衆筆頭となっている。小原鑑元の反乱や秋月文種の討伐に参加。秋月攻めでは大功をたてたと言う。しかしその4年後の[[永禄]]4年、毛利軍と門司城を巡って戦ったが補給路を断たれ利なくして撤退。退路で[[乃美宗勝]]らに待ち伏せを受けて攻撃を受け重傷を負い二~三日後に死去。