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神祇官 (会話 | 投稿記録)
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同年閏[[4月21日 (旧暦)|4月21日]]([[6月11日]])、古代の律令制に基づく官制に倣って[[政体書]]が公布されて、[[太政官]]制がしかれた。'''神祇官'''も正式に復興して太政官の下に置かれた。明治2年([[1869年]])6月には、神祇官は太政官から独立して、行政機関の筆頭に置かれた。
 
明治の神祇官の職掌は古代の神祇官のそれである祭祀、[[祝部]]、[[神封戸|神戸]]などに加えて、新たに諸陵と[[宣教]]が加えられた。諸陵は[[天皇陵]]をはじめとする[[陵墓]]を管轄する業務で、[[古代]]の[[官制]]では、継嗣、婚姻、祥瑞、喪葬、外交などを司る[[治部省]]の[[諸陵司]]が担ったものだったが、明治になり神祇官の下の[[諸陵寮]]が管轄することとなった。従来、死者の[[穢れ]]があり[[神事]]から遠ざけるべきだとされた天皇陵の祭祀を、神事を司る中枢である神祇官が行なうようになったことの意義は大きい。一方、もう一つの新しい職掌である宣教では、神祇官のもとに[[宣教使]]と呼ばれる役所が置かれた。宣教は[[キリスト教]]防御と維新後の国の在り方を国民に宣布することを大きな目的としたものであり、政府の要請を受けて新たに課せられた職掌であった。しかしな、教導の方法や内容を巡って官員同士で深刻な意見対立があり、また神祇官の規模と能力も全国的に宣教を実施できる状態には無かった為に具体的な成果を挙げられなかった。
 
また、神祇官の本来的な職掌である国営の祭祀を行う為の[[八神殿]]の造営が神祇官内で提案された(それまでは[[神籬]]を立てて臨時の祭場としていた)。中世以来本来の姿を失っていた八神殿の復興は[[祭政一致]]の具体的な実現への動きであり、滞っていた宣教の分野においても教説をただ説くだけでなく、実際に行うことが必要であるとの考えであった。特に[[平田篤胤|平田派]]出身の官員は強くそれを主張したが、当時権勢を振るっていた[[津和野藩]]出身の[[福羽美静]]は新時代の祭政一致のモデルは[[天皇]][[宮中祭祀|親祭]]にあるとし、八神殿の復興に対しては消極的な姿勢をとっていた。また、当時の政府は[[江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書|東京奠都]]と[[大嘗祭]]の東京執行という大問題を抱えており、事態が流動的であったため太政官も八神殿の造営には慎重姿勢を見せた。