「ゲルマニステン」の版間の差分

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歴史法学においては、法の歴史性と民族性を強調した。だが、歴史法学創設の中心人物であった[[フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー]]は、[[ローマ法]]の継受されて当時において歴史上唯一のドイツ統一国家であった[[神聖ローマ帝国]]の法制になったという事実を重視してローマ法を重んじた。惟に対してゲルマニステンはローマ法の継受こそが[[ドイツ民族]]=ゲルマン民族固有の法制度を破壊した元凶であるとしてこれを非難して、ドイツ民族固有の法はゲルマン法以外にあり得ないと主張した。これに加えて、サヴィニーが[[プロイセン王国|プロイセン政府]]の一員として[[ウィーン体制]]による[[自由主義]]・[[ナショナリズム]]の抑圧に加担しているとする政治的な不満も加わって、対立はエスカレートし、[[1843年]]に[[ゲオルク・ベーゼラー]]が『民衆法と法曹法(Volksrecht und Jusistenrecht)』でサヴィニーら[[ロマニステン]]の法研究を民衆から乖離した法であると糾弾してから、「[[自由民]]を主体とするゲルマン民族社会=自由主義を中核としたドイツ民族国家」という構図が描かれることによって一気にゲルマニステンを支持する動きが高まり、[[1846年]]にはサヴィニーの故郷である[[フランクフルト]]で初の[[ゲルマニステン集会]]([[:de:Germanistentag]])を開催してその勢いを示し、[[1848年革命]]が始まると[[フランクフルト国民議会]]を支持して[[ドイツ統一]]の必要性を主張した。
 
だが、ゲルマン法にはローマ法の[[ローマ法大全]]に相当するような典拠となる[[法典]]・文献が無かったこと、ローマ法は[[中世]]以後のローマ法の継受を通じて曲りなりにも研究が続けられて、[[近代]]においてもなおこれを近代社会にあった形で実社会に適応させようとする[[パンデクテン法学]]が発生したのに対して、ゲルマン法は中世以後地方[[慣習法]]に留まって19世紀のゲルマニステン台頭に至るまで大規模な法典編纂や研究が無く、近代以前の状態で停滞してしまっていたために実社会への適応の面でロマニステンに遅れを取ってしまったのである。更にその流れの一部は19世紀末から[[20世紀]]にかけてローマ法に歪められた(と主張され)近代・現代社会への懐疑・否定につながり、[[ナチズム]]に奉仕する「ゲルマン法学」へと転化する動きが生まれたために[[第二次世界大戦]]後にはゲルマン法そのものへの疑義を挟む動きも生じた。
 
それでも[[ドイツ民法|ドイツ民法学]]の成立において、ゲルマニステンの主張は一定の反映をみたのであり、今日の[[ドイツ法]]にも影響を残しているのである。