「デイヴィッド2世 (スコットランド王)」の版間の差分

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1328年のイングランドとの条約で[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]の娘ジョーンと結婚した。1329年、ロバート1世の死後、デイヴィッド2世としてわずか5歳で王位を継承した。
 
これに対し、所領を失っていたベイリャル派の貴族たちは、[[1332年]]8月に[[ジョン・ベイリャル (スコットランド王)|ジョン・ベイリャル]]の長男エドワード・ベイリャルを担いで反乱を起こした。イングランド王エドワード3世の支援を受けた反乱軍は、スコットランド王軍を[[ダプリン・ムーアの戦い]]([[:en:Battle of Dupplin Moor|Battle of Dupplin Moor]])で破り、[[エドワード・ベイリャル (スコットランド王)|エドワード・ベイリャル]]がスコットランド王として戴冠した。
 
エドワード3世の後押しで王座についたエドワード・ベイリャルは、イングランド王に臣従を誓い、南部諸州を割譲した。これに怒ったジェームズ・ダグラスの弟アーチボルト・ダグラスは、同年12月に反乱を起こし、アナンでエドワード・ベイリャルを破った。エドワード・ベイリャルはイングランドに逃走した。しかし翌年にアーチボルトは、[[ハリダン・ヒルの戦い]]([[:en:Battle of Halidon Hill|Battle of Halidon Hill]])でエドワード3世に敗れ、戦死した。
 
これを見たデイヴィッド2世は、翌[[1334年]]に王妃とともにフランスに逃れた。フランスでは丁重に迎えられ、[[ノルマンディ]]の[[ガイヤール城]]([[:en:Château-Gaillard|Château-Gaillard]])を住居として与えられた。
 
[[1337年]]、イングランドとフランスの間に[[百年戦争]]が起こった。当初、デイヴィッド2世はフランス王[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]に従って北フランスの遠征に従軍した。スコットランドではデイヴィッド2世支持のブルース派の貴族達が勢力を挽回しており、[[1341年]]にフィリップ6世は、イングランドを北から牽制する目的でデイヴィッド2世をスコットランドに帰国させた。帰国したデイヴィッド2世はスコットランドの掌握に成功し、スコットランドとフランス間の古い同盟([[:en:Auld Alliance|Auld Alliance]])に従って、[[1346年]]10月にイングランド侵攻の軍を起こした。しかし[[ネヴィルズ・クロスの戦い]]([[:en:Battle of Neville's Cross|Battle of Neville's Cross]])で大敗し、デイヴィッド2世は囚われの身となった。デイヴィッド2世は[[ロンドン]]や[[ハンプシャー]]に居住し、11年間捕囚生活を送ったが、比較的自由で快適な生活だった。
 
[[1357年]]10月に、10万マーク([[:en:Mark (money)|mark]])を10年の分割払いという身代金でデイヴィッド2世は釈放された。しかし、貧しいスコットランドに身代金の負担は大きく、デイヴィッド2世は身代金の代わりにスコットランド王位をエドワード3世またはその子供に譲るという密約を交わしたが、1364年スコットランド議会はエドワード3世の息子[[ライオネル・オブ・アントワープ (初代クラレンス公)|クラレンス公ライオネル]]([[:en:Lionel of Antwerp, 1st Duke of Clarence|Lionel of Antwerp]])の次期王位を否定し、身代金を払い続けることで対抗した。
 
こうした中、[[1371年]]にデイヴィッド2世は[[エディンバラ城]]([[:en:Edinburgh Castle|Edinburgh Castle]])で死去した。彼に子供は無く、甥で摂政として実質的にスコットランドを統治していたロバート・ステュアートが[[ロバート2世 (スコットランド王)|ロバート2世]]として王位に付き[[ステュアート朝]]を開いた。
 
{{先代次代|[[イギリス君主一覧|スコットランド王]]|1329年 - 1371年|[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]]|[[ロバート2世 (スコットランド王)|ロバート2世]]}}