「粛川・順川の戦い」の版間の差分

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== 血算 ==
21日1200、第1騎兵師団長一行が粛川に到着すると、付近住民から鳴牛砧(粛川の西48km)の鉄道トンネル米軍捕虜約200人が銃殺された、と知らせを受けた。副師団長と韓国第6師団情報部長が現地に赴くと、そこには死因不明の米人遺体7体が一塊になってあり、草むらの中から1人の生存者が現れた。彼の証言によれば、給食中のところを射殺されらしく、他の生存者の証言と照らし合わせると約300人の捕虜2個列車に分乗して移送され、米軍機の爆撃によりほとんど前進できず待機していたところ20日夕方食事のため列車から降りたのちにろされ、護衛の北鮮兵の一部から出し抜けに機関銃で掃射された。捕虜の大半は死亡。合計66の遺体が発見され、23人が救出された。遺体は小倉のキャンプにて清められて本国に送還された。
 
結局、北鮮首脳部を拘束することも、北鮮軍主力を捕捉撃滅することもかなわず、友軍捕虜の救出もできず、だた一足早い北進となっただけであった。韓国軍はそのまま[[鴨緑江]]を目指し突進を継続、英軍は戦場整理をしつつマッカーサーラインまでの前進を開始、第187空挺連隊は任務終了に伴い23日平壌に移動した。それでも彼らは皆[[クリスマス]]までに戦争が終わると楽観視していた。中共軍が既に北内部展開されに浸透していることは誰も知らずに。まもなく[[朝鮮半島]]の厳しい冬が始まろうとしていた。
 
結局、北鮮首脳部を拘束することも、北鮮軍主力を捕捉撃滅することもかなわず、友軍捕虜の救出もできず、だた一足早い北進となっただけであった。韓国軍はそのまま[[鴨緑江]]を目指し突進を継続、英軍は戦場整理をしつつマッカーサーラインまでの前進を開始、第187空挺連隊は任務終了に伴い23日平壌に移動した。それでも彼らは皆、[[クリスマス]]までに戦争が終わると楽観視していた。中共軍が既に北鮮内部展開されていることは誰も知らずに。まもなく[[朝鮮半島]]の厳しい冬が始まろうとしていた。
 
== 参加部隊 ==