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'''沼津藩'''('''ぬまづはん''')は、[[江戸時代]]の[[藩]]の一つであり、[[静岡県]][[沼津市]]の[[沼津城]]を居城と
== 略歴 ==
沼津城に初めて本拠を置いた近世大名は、[[相模国|相模]][[小田原藩]]主・[[大久保忠隣|大久保相模守忠隣]]の叔父に当たる[[大久保忠佐|治右衛門忠佐]]である。忠佐は[[慶長]]6年([[1601年]]
その後、沼津の地は[[駿府藩|駿河府中藩]]が置かれたときはその領地となり、それ以外の時期は幕府領となり、城も破却された。
沼津に再び大名の本拠が置かれるのは[[安永]]6年([[1777年]]
第2代藩主・水野忠成は[[徳川家斉]]時代に[[老中]]として権勢を奮い、[[田沼意次]]以上に賄賂を横行させる「賄賂政治」を行なった人物として有名である。
忠成の死後、第3代藩主・水野忠義や第4代藩主・水野忠武らは、[[天保の改革]]を行なった[[水野忠邦]]から家斉派に対する粛清として、様々な普請を負担するという報復を受けた。
第6代藩主・水野忠寛は[[井伊直弼]]に同調して[[側用人]]として幕末期に権勢を奮った。第7代藩主・水野忠誠は佐幕派として功を挙げた。第8代藩主・水野忠敬は[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]で新政府に協力したが、[[徳川家達]]が東海地方に入ってきたため、新政府の命により、[[明治]]元年([[1868年]])7月に[[上総]][[菊間藩]]に移封され、沼津藩は廃藩となったのである。
*(安永6年(1777年)-慶応4年([[1868年]]))
譜代。2万石→3万石→5万石。
#[[水野忠友|水野出羽守忠友]](ただとも)〔小姓組番頭・御側役・若年寄・側用人・老中〕
#[[水野忠成|水野出羽守忠成]](ただあきら)〔奏者番・寺社奉行・若年寄・西丸御用人・老中(首座)・勝手用掛〕
#[[水野忠義|水野出羽守忠義]](ただよし)
#[[水野忠武|水野出羽守忠武]](ただたけ)
#[[水野忠良|水野出羽守忠良]](ただよし)
#[[水野忠寛|水野出羽守忠寛]](ただひろ)
#[[水野忠誠|水野出羽守忠誠]](ただのぶ)〔奏者番・寺社奉行・若年寄・老中〕
#[[水野忠敬|水野出羽守忠敬]](ただのり)〔江戸城大手御門番・甲府城代〕
== 関連事項 ==
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