「ルクレツィア・ボルジア」の版間の差分

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次いで[[1498年]]に[[ナポリ]]アラゴン家のドン・アルフォンソ(元ナポリ王[[アルフォンソ2世 (ナポリ王)|アルフォンソ2世]] 在位1494-1495年の子)と結婚する。二人の夫婦仲は良かったという。しかし[[1500年]]にアルフォンソは暗殺される。兄チェーザレ・ボルジアの指図とも言われる。当時の情勢から、次に手を結ぶ相手とルクレツィアを政略結婚をさせたいため、であったという(死別でなければ再婚できないため。例外は「白い結婚」)。<!---当時、ルクレツィアと結婚する事、ボルジア家との姻戚関係を結ぶ事は、敵対する事よりも危険で恐ろしい事であったのである。 ← 単なる感想を書かないでほしい--->
 
[[1501年]]、[[フェラーラ]]領主[[エステ家]]の[[アルフォンソ1世・デステ|アルフォンソ]](1476年 - 1534年、のちフェラーラ公アルフォンソ1世 在位1505年 - 1534年)と3度目の結婚。当時、フェラーラはルネサンスの文化が花開いた都市の一つであり、宮廷には各地から文学者や芸術家などが集まっており、ルクレツィアはサロンの女主人として優雅に振舞った。しかし、吝嗇家の傾向がある舅のエルコレ公と、浪費家のルクレツィアとは金銭感覚が合わず、彼女の大勢のスペイン人侍女達への手当てと、家計の費用を巡って議論になった。あまりにも家計に関する議論が絶えないため、彼女が[[クララ会]]修道院にこもってしまったこともあるという。詩人、ピエトロ・ベンボと浮名を流したこともあったらしい。しかし、この程度の浮気は夫の顔を潰さぬ程度なら当時の社交界では大目に見られていたようである。また、義姉の[[イザベラ・デステ]]の夫マントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガとも不倫関係にあり、このことを知ったイザベラは、ただ二人を軽蔑しただけだったという話もある。二人の不倫関係の真偽の程は定かではないが、ルクレツィアとゴンザーガが親しかったのは確からしく、[[1504年]]に幽閉されたチェーザレ釈放の協力を、ルクレツィアがゴンザーガに頼んだこともある。
 
[[1502]]年の[[9月5日]]にルクレツィアは妊娠したが、彼女の体調が悪いのを知ったチェーザレは、[[7月28日]]にミラノにいるフランス王を訪ねた後、変装して突然彼女に会いにやって来た。[[9月5日]]にルクレツィアは女児を死産。その間も、ずっとチェーザレはルクレツィアに付き添い、物語や冗談などで彼女をはげました。