「奉行衆」の版間の差分

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奉行人は[[鎌倉幕府]]より存在しており、鎌倉幕府滅亡後に[[足利尊氏]]に従って室町幕府に参加した者の中には引き続き、奉行人として用いられる者もいた。当初、[[引付]]と呼ばれる裁判機関に[[右筆]]と呼ばれる奉行人を配置して[[奉書]]・[[御教書]]などを作成した。しかし、鎌倉幕府の体制を引き継いだ政権構想を主導してきた[[足利直義]]の没落、[[足利義満]]が[[院別当]]・[[太政大臣]]などを歴任することで[[院政]]・[[朝廷]]の政治機能が幕府機構に吸収されるなどの変化に伴って奉行人の役割も変質してくることになる。
 
まず、引付が事実上廃止されて、[[政所]]・[[侍所]]・[[問注所]]・[[恩賞方]]などに右筆が配置され、また「別奉行」と呼ばれる特命を担当する役職に任命される奉行人が現れるようになる<ref>ただし、例外として作事奉行・御物奉行・倉奉行など、将軍家の家産などの管理を担当して、公文書作成に直接携わらない別奉行には右筆からは就任せず、それ以外の特定の奉行人や世襲の家から選ばれていた。また、御前奉行人が形成されるようになると、通例の別奉行は主として彼らが兼務するようになる。</ref>。また、[[征夷大将軍|将軍]]が主宰する[[御前沙汰]]にも御前奉行人(御前衆)と呼ばれる右筆中の有力者が参加を許されるようになった。御前沙汰とは本来、[[評定衆]]による会議の中でも将軍の私的会議としての性格の強いものであり、奉行人は御前沙汰において[[意見状]]と呼ばれる判決原案を作成する立場にあったが、後には将軍の私的権限にて御前奉行人が直接御前沙汰に参加する事が許されて直接意見を述べるようになった。特に[[足利義教]]のもとでは、将軍が[[管領]]以下を抑制するために御前沙汰によって重要決定を行うようになり、法制や先例、[[有職故実]]などに詳しい御前奉行人は公的には将軍の命令書である奉書(奉行人奉書)の作成・加判を行うとともに、御前沙汰などでの意見は将軍の裁決に重大な影響を与えるようになり、次第に将軍の私的顧問としての性格も有するようになった。この頃になると鎌倉時代の奉行人であった[[太田氏]]・[[三善氏]]らの子孫で代々こうした知識を家伝・家学として伝えてきた[[斎藤氏]]・[[松田氏]]・[[飯尾氏]]・[[布施氏]]など限られた家系によって右筆・奉行人などの地位が独占されるようになり、彼らは'''奉行衆'''・'''右筆方'''として集団を形成していくことになる。ただし、ここに登場する奉行衆や右筆方は組織の名称ではなく、幕府各機関に所属していた右筆・奉行人達を総称して指したものであり、こうした名称の機関などが存在していた訳ではない。彼らは幕府本来の機構の中では組織の次官に当たる執事代にまでしか昇進できなかった<ref>奉行衆全体で約60名、うち右筆が約40名、更にその中でも20名前後が御前奉行人であったといわれている。</ref>。また、こうした家々の庶流の中には幕府の役職には就けなくても有力な[[守護大名]]に召されて司法や文書作成などの能力を発揮して用いられる者も存在した。[[阿波国]][[守護]][[細川氏]]に仕えて[[応仁の乱]]後の[[京都]]の焼け野原の有様を詠ったとされる[[飯尾常房]](彦六左衛門尉)もその一人であるとされている。義教以後も幕府内部における奉行衆の発言力は増大して将軍の裁決にも重大な影響力を与えるようになり、[[足利義政]]の頃には評定衆などの既存の幕府制度上の役職に代わって、事実上の幕府最高諮問機関を構成することになる。こうした中で、[[文明_(日本)|文明]]17年([[1485年]])には奉行衆と奉公衆の間で衝突を起こすまでに至っている。武官である奉公衆は管領による幕府権力の掌握を目指した[[明応の政変]]を機に解体に向かうものの、幕府機構が存在する限りは文書作成・裁判行政を担当する奉行衆の価値は引き続いて存在し、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]に入って[[足利義稙]]・[[足利義澄]]の2人の将軍が並立した時期には奉行衆も分裂して双方に幕府機構が存在した。このように奉行衆は室町幕府の行政機構の原動力として幕府滅亡まで存在したと考えられている。
 
== 脚注 ==