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== 教部省を巡る問題 ==
神祇官・宣教使の宣教政策の失敗を受けて出来上がった教部省であったが、最終的には廃止という結果となった。その原因として当時の宗教行政の混乱が挙げられる。政府は当初、伝統宗教の権威と地盤を以ってキリスト教防御と維新後の新体制を国民に教導する考えであったが、[[近代]][[国家]]の樹立の為には[[政教分離]]と[[信教の自由]]を国家の基本方針として盛り込むことは避けられず、また西洋諸国との外交関係に於いてキリスト教の禁制解除は不可欠となった。また、[[学制|近代的学校制度]]の整備によって宣教政策の目的が達成されるとの観点から、政府は教部省の存在自体を懐疑的に捉える結末となり、上記の混乱によって既存の宗教勢力は右往左往することとなった。そのような混乱の中、[[神仏分離]]で劣勢に立たされていた仏教勢力、特に[[明治維新]]に際して[[倒幕運動|倒幕側]]を支援した浄土真宗は巧みな政治工作によって教部省を政府に樹立させたが、[[一向宗#宗名論争|宗名問題]](浄土真宗が公式に否認している「一向宗」を宗派名として強要しようとした問題)を機に浄土真宗内部よりからも政府に対するへの反発する動が高まってたこと台頭しあり、教部省の施策が暗礁に乗り上げると政教分離の観点から脱退するといった動きを見せた。
 
== 大教院神殿問題 ==