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榊原篁洲は江戸時代前期の儒学者
 
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本姓は下山氏であったが、幼くして両親を失い外祖父に育てられ、榊原姓を名乗る。若い時期に上洛し仕官しようとするが見つからず[[木下順庵]]に入門する。順庵の家に3年間寓居したのち故郷和泉に帰りひたすら[[経書]]を読み耽る。[[漢詩]]にはあまり興味を持たなかった。その後外祖父に従って[[江戸]]に出て子弟の教育に携わるが、偶々木下順庵が幕府に招聘されて江戸に来たので再び門戸を叩いた。篁洲は[[新井白石]]・[[室鳩巣]]・[[雨森芳洲]]・[[祇園南海]]とともに「'''木門の五先生'''」と呼ばれた。[[貞享]]4年(1687年)に順庵の推挙を受けて[[和歌山藩]]の儒官となった。師の順庵が[[古希]]のとき(1696年)、願い出てその肖像を画工[[住吉派|住吉氏]]に画かせている。順庵は篁洲との関係を「汝と我と、陰と陽あるが如し」と子弟の枠を超えて相互に補い合う関係だと述べている。
 
順庵の学統を受けて篁洲も学派の区別を好まず、のちの[[折衷学]]派の開祖と見なされる。また[[中国]]歴代の法律・制度に詳しく『明律訳解』を著して、[[荻生徂徠]]などの律学政書の先駆をなした。さらに、[[天文学|天文]]・[[暦#暦法|暦学]]にも明るく、天文学の大家である[[渋河春海]]と親しく交流している。帰化僧[[心越]]の流れを汲む[[篆刻]]を学び、日本における[[文人]]篆刻の嚆矢となった。その他に[[槍術]]・[[剣術]]・[[弓道|射御]]・[[書]]・[[算術]]・[[古方派|医術]]・[[易経#占法|卜占]]・[[茶道]]・[[香道]]・[[囲碁]]・[[猿楽]]など多方面に通暁していたという。
 
門弟に書家・篆刻家の[[池永道雲]]が育つ。
 
== 著書 ==