「中村孝也」の版間の差分

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BoB774 (会話 | 投稿記録)
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中村が教授に昇任したとき、東大の国史学科は[[平泉澄]]が主任教授であった。平泉が「朱光会」や私塾青々塾で、いわゆる[[皇国史観]]を説いていたが、中村はこうした平泉の行動に一線を画し、国史学研究室にも足を向けない程であった。平泉に反発する学生が中村のもとに集まり、[[1940年]](昭和15年)には中村が会の代表とする「国民生活研究会」という研究会が結成された。
 
太平洋戦争が終結した1945年(昭和20年)10月、中村は東京帝国大学教授を依願退官した。中村は、東京帝国大学退官後も大学教員として教壇に立つことを希望していたが、GHQにより教員不適格者と判定されてしまった。そのときの心境を「中村孝也、昨日を以て死去した」と日記に綴っている。
 
1951年(昭和26年)に教職追放解除となってからは、明治大学で教壇に立ち、いっぽうでは徳川家康文書の蒐集・調査を進めた([[1957年]](昭和32年)には[[文部省]]研究成果刊行補助金の支給をうける)。その成果が大著『徳川家康文書の研究』にまとめられ、1962年(昭和37年)には日本学士院賞を受けた。