「ラヌッチョ2世・ファルネーゼ」の版間の差分

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彼の治世の晩年、パルマは、神聖ローマ帝国軍のひどい駐留に苦しめられ、[[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]と[[フランス]]の間で論争となった。
 
==家族==
1660年、マルゲリータ・ディ・サヴォイア([[ヴィットーリオ・アメデーオ1世]]の娘)と結婚。1663年に第2子を出産し産褥死した。子供2人は夭折した。
 
1664年、イザベッラ・デステ([[フランチェスコ1世・デステ]]の娘)と結婚。3子をもうけた。
*マルゲリータ・マリーア(1664年-1718年)  [[フランチェスコ2世・デステ]]妃
*テレーザ(1665年-1702年)  メルテン公グスタフ2世妃
*オドアルド2世・ファルネーゼ(1666年-1693年)  公世子。父親より先に死去。[[エリザベッタ・ファルネーゼ]]の父。
 
1668年、マリーア・デステ(先妻イザベッラの異母妹)と結婚。7子が生まれたが成人したのは2人だけである。
*[[フランチェスコ・ファルネーゼ|フランチェスコ]](1678年-1727年)
*[[アントニオ・ファルネーゼ|アントニオ]](1679年-1731年)
 
 
{{先代次代|[[パルマ公の一覧|パルマ公]]|[[1646年]] - [[1694年]]|[[オドアルド・ファルネーゼ|オドアルド]]|[[フランチェスコ・ファルネーゼ|フランチェスコ]]}}