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'''黄長燁'''('''ファン・ジャンヨプ'''、[[1923年]][[12月7日]] - )は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]<!--定義部から無理に略称「北朝鮮」にする必要がない-->の[[思想家]]で[[主体チュチェ思想]]の理論家。<!--主体思想の構築者である。/←大袈裟では?まさか、そう自称しはじめた?-->
 
[[咸鏡道]]出身とも[[平壌]]出身とも言われる。地主の家庭に生まれ、平壌と[[東京]]で学んだ。戦前に、日本の[[中央大学]]もしくは[[明治大学]]に留学していた事もあり[[日本語]]を話すことが出来る。
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[[1949年]]、[[ソビエト連邦|ソ連]](現在の[[ロシア]])の[[モスクワ大学]]へ留学し[[哲学]]博士号を取得する。帰国後は[[金日成総合大学]]で教鞭を執り、[[1965年]]同大学総長に就任。[[1970年]]には[[朝鮮労働党]]中央委員会委員に就任し、その後要職を歴任する。この時期には[[金日成]]の側近であり、金日成のゴーストライターとも言われた。
 
学者としても活発に活動し、諸外国に研究サークルを設立して主体チュチェ思想の普及に努めた。<!--(だが、1994年の金日成の死後は、[[金正日]]体制のもとで党内影響力を失っていたと見られる。){{要出典}}-->
 
[[1997年]]、主体チュチェ思想に関する講演のため訪日した直後、帰路の北京で秘書の[[金徳弘]](キム・ドッコン。朝鮮労働党中央委員会資料研究室副室長)と共に[[大韓民国|韓国]][[大使館]]に赴き[[亡命]]を申請する。
 
亡命理由について、黄長燁は手記で祖国の体制に義憤を覚え、その変革を図る為と述べている。但し、黄長燁は共産党体制よりも一歩進めた独裁化の為のイデオロギー的な整備を行った当事者でもある。この事から国内での権力闘争に敗れたため保身を図って亡命したのだとも言われている。また、在中国朝鮮人の女性との不倫関係により立場が悪化した為とも言われる。いずれにしても亡命の動機の真偽は定かではない。
 
黄長燁の亡命の前後には、北朝鮮当局が公式[[プロパガンダ]]において「主体チュチェ思想」の語を出す頻度を減らし「赤旗思想」の語を登場させたことが観察されている。この事から、北朝鮮当局が「主体チュチェ思想」(自主自立路線)を撤回する必要に迫られていることが疑われた。しかし「赤旗思想」の語は程無くして消えた。
 
黄長燁<!--(の亡命は主体チュチェ思想の破綻を意味するともされ)←これも主体チュチェ思想と人物の両方を過大評価。主体チュチェ思想がそのときどきの政策課題を反映して中身を変えていたことは早くから観察されています-->ほどの高官が亡命するということは[[金正日]]体制が極めて不安定であるとの印象<!--(一部では崩壊寸前との憶測まで呼んだ)←「現代コリア」以外はこんな憶測を述べていないはず-->を海外の観察者に与えた。日本では[[佐藤勝巳|現代コリア研究所]]の関係者を中心に一部では政権崩壊寸前との憶測を飛ばす者がいた。
 
<!--(しかし、[[金大中]]政権の進めた[[太陽政策]]の下では黄長燁の金正日体制打倒の主張は韓国政府に忌避され、不遇であった)太陽政策のため?何と比較?-->
黄長燁は現在、[[アメリカ合衆国]]を中心に金正日政権打倒を掲げて活動している。
[[2004年]][[2月]]には[[ソウル特別市|ソウル]]にある支援者の事務所に赤ペンキで汚された黄長燁の写真が脅迫文と一緒に置かれるという事件があった。
なお、彼の家族及び親類は'''国家反逆罪'''に[[連座制|連座]]して[[強制収容所 (北朝鮮)|強制収容所]]に収容されていると、韓国へ亡命した者より伝えられている。
 
現在、黄は現在の北朝鮮と主体チュチェ思想の関係について「本来の主体チュチェ思想は[[マルクス・レーニン主義]]を北朝鮮の実情に合わせて朝鮮民族が主体的に革命運動を担う為のもの。金日成らの[[個人崇拝]]などは全く含んでおらず、完全に歪められている」と日本のニュース番組のインタビューで語っている。
 
日本語訳手記に『金正日への宣戦布告』(文春文庫)がある
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*[[唯一思想体系]]
 
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